凍えた世界で
世界はつめたいのだと、恋人が前に言っていたことを思い出す。
つめたい、つめたい。たしかにそうかもしれない。
凍えてしまいそうな頭で思った。
そのとき私は、恋人のことなど思い出してはいなかった。ただ、彼が言っていたことを思い出していただけである。
その言葉を吐いたのが、どこかでふんぞり返る政治家であろうと、巷で噂の漫画の作者であろうと、誰でも構わなかった。ただ、世界はつめたいという言葉を思い出して、満足していた。
朝まで、絶好のお出かけ日和という天気だった。
12月に突入した日本は確かに寒かったけれど、マフラーと手袋と、カーディガン。それだけで凌げる寒さだった。
だから、家を出てみようと思った。特に理由は無い。
世界は私を呼んではいないし、誰かに遊ぼうと召集をかけられたわけでもない。むしろ家でしなくてはいけないことのほうが多いくらいだった。どうして家を出たのか。あえていうなら、『絶好のお出かけ日和という天気だった』からである。
はぁ、と身体で暖めた息を吐き出すと、目の前の空気が白くなった。どういう原理なんだろう、これ。沢山の人が目の前を通り過ぎていくのに、誰も私の疑問に答えてはくれなかった。少し、少しだけ、悲しい気分になる。
「なーに不貞腐れてるんじゃ」
「・・だれ」
「恋人さまの顔すら忘れたか。ひどい女じゃ」
「恋人・・?あぁ、うん。世界はつめたいね」
寒すぎて頭も舌も回らなかった。
ただ彼が私の恋人だというのなら、彼はこう言っていたはずだ。ならば、それに対する返事をしてやらなくてはと思った。しかしそれもただ漠然と、そんな義務感に駆られる自分を認めただけに過ぎなかった。
「ほぅか」
彼は頷いた。
彼は真白の雪のような、無垢な色をしていた。それはどこかスキー場のゲレンデにも似ていたかも知れない。もちろん、人工雪を降らす経営者がいるスキー場の、だ。
「ならお前さんは、俺がそう言ったあとの自分の言葉を、覚えてるか?」
「しらないよ、そんなの」
私は手袋を引っ張りながら答える。
心当たりなんか一つもない。
すると目の前の彼は、何がおかしいのか、楽しげに喉を鳴らすのだ。
猫みたい。
ああ、私はよくこのセリフを使っていたような気がする。
自分の中に一つ何かが帰ってきた。
「『だとしても、仁王と私は生きていて、暖かいね』」
「…あたたかい、」
呟くと、また一つ。
お帰りなさい、私の一部。
「憐は、そう言って笑ったじゃろ」
「そう、・・・そうだったね。うん。
いやはや、ただいま、仁王」
「ピヨッ。おかえり、憐」
おかえり、私。
ようやく私は手袋を引っ張るのも、マフラーを鼻まで被せることも止められた。
世界はつめたい。
けれど、私を立たせるために仁王が差し出してくれた手が暖かかったから、身体の震えは自然治まった。
私の言ったことは間違っていないようだ。
「なんだか色々あって忘れてた、色々と」
「ほうか。もう忘れ物はないか?」
「多分。仁王、寒いからカイロちょうだい」
「俺を殺す気か!」
本気で拒まれた。
しかし彼のコートのポケットには、その両方にホッカイロが入っているのだと知っている私は、何の躊躇いもなくそこからカイロを奪い取る。
「・・・なんつー仕打ちじゃ。しかもまだ忘れ物はあるみたいじゃし…」
「忘れてないよ」
「じゃあ、今日が俺の誕生日じゃって、知っとった?」
「しらん」
「・・・・・ブピー」
仁王がいじけて出した音は、少し離れた住宅街を走る焼き芋屋の声に掻き消された。
やきいも、おいしい、やきいもだよ。
おいしいなら食べるしかない。
「仁王、やきいも買ってあげるから」
「やす。まさか、それでプレゼントのつもりか?」
返事の代わりに走り出した私を、通行人が迷惑そうに睨んだ。
すれ違う人たちは皆、寒そうにポケットに手を突っ込んで、周りの手を寄せ付けやしない。
後ろから聞こえる、軽くてテンポの速い足音は仁王のもの。
後ろから聞こえる、私を呼ぶ少し寒さに震えた声も仁王のもの。
後ろから伸びてくる、何の防寒もしていない白い指は仁王のもので、触れたらきっと暖かい。
凍えた世界で
(彼の手が暖かいから、)(明日も凍らず生きていける)
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とっても寒い日、なんかいやなことがあって、ぜんぶわすれたくなっちゃった女の子とその恋人の話。
11/12/11 2010年仁王生誕祭より移動
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