その日、nameは昼の開店に向けて仕込みをしていた。食べ盛りの海兵たちの為の大量の昼食と……いつも昼下がりに訪れる、強面の常連客の為の食事を。朝からあまり天候はすぐれず、空を覆う雲は、いつ雨が降り出してもおかしくなさそうな色をしていた。

二本の葉巻を咥えて訪れるその常連とは、あの夜以来会っていなかった。訪れる海兵たちによると、仕事の他に何かの調査をしているようで多忙らしい。何だかんだ言って、仕事はきちんとこなしているようだ。事あるごとに食堂に文句をつけているとも言っていた。あの夜のお礼もきちんと言っていないし、今度コーヒーか、余裕があれば昼食を差し入れてみようか、と考えていると自然と手が止まってしまっていて、彼女は慌てて鍋の火を止めた。


彼女が冷蔵庫を開けて味をつけた鶏肉を仕舞っている時、店のドアが乱暴に叩かれた。こんな叩き方をする客は常連に居ないし、ましてや郵便屋ではないことは明らかだった。店はまだ開店していない。不審に思うが、振り返ったドアのガラス越しに見えた影が魚屋の亭主だったので、濡れた手をエプロンで拭いて、彼女はカウンターから駆けて出た。小気味いい音を鳴らすカウベルとは裏腹に、訪ねていた店主の顔は青ざめていた。



nameは息を切らして走りながら、自分が病院と最も遠い街の外れに居を構えていることを後悔した。小さな街ではあるが、走っても走っても丘は一向に近づかない。事情を知る街の人々が助けを出そうとするが、何処へでも歩いていけるようなこの街にバイクのような交通手段を持つ人間はいなかった。胸が悲鳴を上げる。それでもnameは、足を止めることが出来なかった。自分が立ち止まった瞬間に、母が事切れてしまう気がしていた。

後ろから、聞き慣れない重低音が聴こえてきた。

それはnameを追い越し、すぐ前に止まった。見慣れた正義が目の前で翻ったので、nameはついに立ち尽くした。

「何やってんだ、乗れ!」

珍しく葉巻を咥えないスモーカーがnameを叱咤し、彼女は何が何やら分からぬ間に、彼の後ろに乗り込んだ。ビローアバイクを見るのは初めてだった。彼が速度を上げるので、nameはその都度振り落とされないように腰に腕を強く回す。どれだけ力を強めても折れないような安心感がその背中にあった。不安を紛らわすため、nameはこっそり正義に顔をうずめた。

街の景色はぐんぐん後ろへ飛んでいき、スモーカーが病院のエントランス前に滑りこむようにして乗りつけると、礼もそこそこにnameは病院内に飛び込む。彼女とその母を知る看護師や街の人びとが待ち構えていて、彼女と共に病室へ走った。溢れそうな涙をそれでも堪えてnameが病室のドアを開ける。母は、眠っているように見えた。

「鎮静剤を打ちました。今は眠っておられます」

傍らの医師が眉根を寄せて説明するのを遠くに聞きながら、それでも安堵して、nameは深く息をついた。後ろに居た看護師や、街の人々や、騒ぎを聞きつけた別の入院患者たちもまた。

「……それで、nameさん」

上の空だったnameを、次の一言が現実に引き戻した。

「今のうちに、ご挨拶を」



エントランスを出たnameをスモーカーが待ち構えていた。紫煙も立てず律儀に待ってくれていたことが有難いような、つらいような、複雑な心持ちだった。病室まで来なかったことを考えると、やはり彼は知っているのだろう。nameとその家族、そしてこの街に、海軍がどんな仕打ちをしたのか。何か言いたげな彼に、nameは進んで報告した。

「母を、看取ってきました」
「……」
「穏やかな最期でした。苦しむようなことがなくてよかった」
「……」
「ありがとうございました。送ってくださって」
「……name」

彼は葉巻に火を点けようとして、あることに気づいて辞めた。ジャケットを脱いでnameの頭に掛けてやると、彼女から目を逸らして空を見上げた。

「風邪引くぞ」

ポツポツと地面を濡らし始めた雨。肩を寄せた黒いグローブ。nameはスモーカーのジャケットに隠れ、人知れず嗚咽した。
 

 

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