鏡台の前で、nameは唇に紅を引いた。自分で自分のことを美しいとは思わないが、昼のそれよりは夜らしい顔になったのではないだろうか、と思う。最後に髪を束ねて上げれば、準備はできた。紺の落ち着いたドレスは、さながら夜の海のようだった。

nameが軒先に明かりを灯して看板をひっくり返せば、待っていましたとばかりに海兵たちが訪れる。みな一様に疲れた顔をしていた。今日は大捕物があったらしい。nameは微笑みながら、求められるままに酒を注いだ。海兵たちの血なまぐさい武勇伝に曇る表情を繕いながら、会話の中に何度も出てくるあの男の名前に緩む心を隠しながら。

「nameちゃん、そろそろ返事をくれよ」
「母がお店に帰ってきたら、ってお返事したと思うんだけど」
「嫌だよ、nameちゃんの母ちゃんおっかねえから」

nameは笑みの裏で海兵たちの失礼な言葉を呪いながら、それでもその海兵たちを相手にしている自分に矛盾を感じた。こうでもしないと店は保たないのだと自分に言い聞かせるが、それでも罪悪感は拭えなかった。nameは母ほど強くなかった。憩いを求めてやってくる海兵たちを今更追い出すことなんて、到底出来やしなかった。



「……ん」

nameが鳥の声に目を覚ますと、そこは店のカウンターだった。痛む頭を押さえ立ち上がって、自分がまだドレス姿であることに驚いた。昨晩は最後のグループを追い出し、看板を下げ、明かりを消し、ドアに鍵を掛け……辿ると、そこまでは記憶にあるが、その後のことを全く覚えていなかった。

「深酒しちゃったのかしら」

身体が重かった。客に付き合って呑んでいる内に幾らか強くなりはしたが、それでもやはり持って生まれた性質上、酒はそれほど得意ではなかった。のろのろと「STAFF ONLY」の扉を開けて二階へ上がる。nameの家は店の二階だった。化粧を落とし、シャワーを浴び、いつものワンピースの袖に腕を通すが、身体、特に頭の怠さは拭えなかった。この様子じゃ営業は出来そうもないと判断したnameは、仕方なく紙にペンを走らせる。

『本日、ランチ、ディナー共に臨時休業とさせていただきます。申し訳ありません。またのお越しをお待ちしております。  name』

とはいえ買い出しには行かねばならないし、今日は母の、週に一度の面会日だった。ドアに紙を貼り付けて、nameはため息をついた。母のことは嫌いではないが、気が重い。昨日の今日で病状が良くなっているとも思えなかったし、会うたびに、無言のうちに責められているような気がしていた。



小高い丘の、頂上へ続く坂道の先。港町で一番大きな病院に、nameの母は入院していた。それは不治の病で、入院が決まった頃にはもう随分と進んでしまっており、進行を遅らせることもままならない状況だった。父が死に、贔屓にしていた海兵たちを追い出して母が閉め切ってしまっていた店をnameが再び開いたのは、その母の病気の治療費の為だった。

「母さん」

清潔な病室に入ると、母は窓の外を眺めていた。こちらの言葉には反応しない。nameは健気に笑ってみせると、手の中の切り花を花瓶に挿した。

「今日はいい天気ね」
「……」
「このお花ね、角の花屋のおばさまが、母さんにって、選んでくださったのよ」
「……」
「港、いい風が吹いていたわ。今日くらい防波堤を歩いたら気持ちが良いでしょうね」
「……」
「店のことは心配しないで、私がなんとかしてるから」

どこかの船が警笛を鳴らしたのだろう。低い音と潮風が、開け放った窓からnameと母の間を通り抜けていく。nameは、もはや自分のことを認識していないであろう母に、それでも笑いかけた。穏やかな表情で水平線を眺める母は、まるで父が死ぬ前の、店のカウンターで沢山の海の男達に囲まれて微笑んでいた日々の彼女のようで、nameはそれが少し嬉しくて、切なくて、哀しかった。

「また来るから」

影の長くなる時間になって、nameはベッドサイドから立ち上がると、病室を出た。母は一度も、こちらを見なかった。



丘を下る坂道を歩いていると、向かいから見覚えのある顔が歩いてきた。立ち止まったnameに不審げに顔を上げた男は、その姿を確認すると、逆光に目を細めながら、心なし口の端を上げた。

「こんにちは、スモーカーさん。またサボり?」
「そんなにサボってばかりいねェ。パトロールだ」
「今日はあの可愛い子、連れてらっしゃらないのね」
「可愛……くはねェが、たしぎのことなら、トロいから置いてきた」
「スモーカーさんったらひどいのね。……たしぎって言うんだ、あの子」

スモーカーはそのままnameの隣に立つと、それまで登ってきた道を共に下り始めた。心なし歩調が合う。気を遣って合わせてくれているのか、それとも生来のよく気のつく性格がそうさせるのか、男の歩幅の小ささにnameは人知れず微笑んだ。

しばらく歩き、丘のふもとに立った時、スモーカーは口から煙を吐き出してnameを見下ろした。

「どっか悪いのか?」
「え?」
「病院の帰りだろう。店の貼り紙を見た」
「ああ、あれは……」

二日酔いで、言おうとしたnameが顔を上げると、傾いた光の中で、スモーカーの目が険しく光っていた。この顔で海賊たちを尋問するのだろうか、とnameは苦い気持ちになる。彼の瞳には、嘘を許さない強さと威圧感があった。開いてしまった間を埋めるのに、nameはアハハ、と乾いた笑いを漏らした。ふい、とさり気なく視線を逸らした自分の狡さを思い知った。

「心配してくださってありがとう。でも、昨日、お客さんと一緒になって飲み過ぎたので、少し体調が優れないだけ。病院へは、母の見舞いに」
「なら良いんだが。……いや、良くないな。お袋さんは入院してンのか」
「ええ。なかなか良くならなくって」

不自然な間をスモーカーは気に留めていないようだった。歩き出したnameに添って、葉巻の煙も商店街へと進む。

「そんなに悪いのか?」
「少し前に、話題になったでしょう。何もかも忘れていってしまう……」
「……あァ」
「もう私のこともわかりません。まあ、母にとっては、何もかも忘れてしまった方が良いのかもしれませんが……」

呼び止められるまま、nameは魚屋で食材を買う。上機嫌におまけをしてくれた魚屋の亭主が、スモーカーに向けて何言かヒソヒソと声を掛け、掛けられた本人が苦笑いした。そのまま八百屋や肉屋を巡り、両手一杯になった荷物を、スモーカーがごっそりとnameの手から奪い取った。

「わ!いいですよ、そんな」
「俺たちァあんたらの税金で生かされてんだ、こんな事ぐれェやらせろ」
「でも、」
「……どうしても、ロクに仕事しねェ奴らもいるからな」

その言葉に、nameは息を詰めた。スモーカーは彼女に一瞥も呉れずに、一言「送る」と言って店までの道を先にずんずん進んでいく。nameはその背中を目で追いながら、しかし、足は動かなかった。

なんとなく、本当にさり気なく、話の流れで愚痴を言っただけのことかもしれない。nameはそう自身を納得させようとした。けれど、どうしてもそうでない気がしてならなかった。さっき見た強い眼光に、スモーカーがサボりと厳つい顔だけの海兵でないことを知ってしまったから。

……スモーカーは、知っているのだろうか。
だとしたら、何を、どこまで。


 

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