とある港町の片隅にある小さなレストラン「オフィーリア」は、その立地条件の悪さにもかかわらず、昼夜問わず海兵たちで賑わっていた。昼は安くてボリューミーかつ絶品の料理を、また夜になれば良い酒と肴を提供するその店を、娯楽に飢えた海兵たちが訪れないわけがなかった。それだけではない。「オフィーリア」の女主人は、巷で評判の器量良しだった。

「nameちゃん、ちゃんと返事考えといてね!」
「はいはい、ちゃんと前見て走りなさいな」

手を振ってランチタイム最後の客だった海兵を見送る。何度も振り返る彼を眺めつつ、長くうねる黒髪を潮風になびかせてnameはため息をつく。店が繁盛するのはありがたいことだった。しかし、訪れる海兵たちの中には、今見送った彼のように自分に恋愛感情を抱く者も少なくなかった。決して迷惑というわけではなかったが、nameは何より彼らを嫌った母が築いたこの店に、海兵の客が増えていくことを少しばかり気がかりにしていた。

「髪でも切ろうかしら」

自分の髪を指に巻きつけながら彼女は呟いた。いつだったか、髪が長く艶のあることを褒めて口説き文句にしてきた男がいた。自分のこういう部分が彼らの情を引き寄せてしまうのであれば、その原因を断ってしまうに限る。


髪の件は取り敢えず保留にして、nameは店のドアに掛けられた看板を「CLOSE」に掛け直した。夜の開店に向けての準備があった。

「もう終わりか?」

その時、後ろから声がかけられた。その声の聞き覚えのないことに、nameは首を傾げつつ振り向いた。こんな辺境まで訪ねてくるなんて海兵の他にないだろうが、常連ばかりのこの店で、一人でやって来たらしいのは珍しかった。彼女に声を掛けたのは銀髪を後ろに流した強面の男だった。葉巻を二本も咥えている。たぶん、いつもnameに声を掛けてくる彼らのような下っ端ではなく、もっと上の階級だろう。

nameは視線を外して店の冷蔵庫の中身を思い返し、それから彼に微笑んだ。

「ランチは終わってしまって、ありあわせのものしかご用意できないんですが」
「いい。それを頼む」

nameがドアを開けようとすると、後ろからにゅっと黒いグローブの手が伸びて、ドアを支えて彼女が通れるだけの隙間を確保した。顔に似合わず紳士なのだな、と思いつつ会釈すると、解きかけたエプロンの紐を結び直す。カウンターの内に入って準備を始めると、強面の男もまた、カウンターの、nameに近い席に座った。

男はぼんやりと、紫煙を燻らしながら店内を眺めているようだった。本当に珍しいお客さんだな、と彼女は思った。こんな風に静かな客は滅多に来ない。皆、何処か別のところで背負ってきた疲れや憂鬱を、此処で発散している風だった。

「綺麗なもんだな」

葉巻を咥えた口から出た言葉を一瞬疑った。nameはフライパンに蓋をしつつ、しかめた顔を上げた。

「なんですって?」
「手入れが行き届いている」

男が指さしたそれは、壁に掛けられた舵輪だった。古いものだったが、落ち着いた木目は磨かれて黒く艶を放っていた。nameはそちらへ目を遣って、自分に向けられたものでなかったことに安堵し、知らずのうちに微笑んでいた。

「あれは、商船に乗ってた父のものです」

彼はnameの言葉を聞いて席を立ち、舵輪と、その周りに飾られた写真や信号旗に近づいた。

「興味がお有りですか?」
「俺も船乗りだからな。親父さんは?」
「20年ほど前に亡くなりました」
「……そいつは気の毒に。悪かった」
「昔のことですから、お気になさらず。どうぞごゆっくりご覧下さいね」

彼に背負われた正義を眺め、nameは初めてだな、と思う。彼女がこの店の主になってから、父の遺品に興味を持った客は、珍しいどころか初めてだ。

フライパンの蓋を開けると、肉汁の弾ける音と香りがした。男がカウンターに顔を向ける。nameは手早くハンバーグと付け合せの野菜を皿に盛り付けると、葉巻の置かれた灰皿を避けて皿を置いた。そこで、男が父の遺品に近づく際に葉巻を咥えていなかったことに思い至る。

「パンとライスはどちらにします?」
「メシがいい」
「大盛りで?」
「あァ」

ドカっと席についた彼にカトラリーを手渡し、nameは調理器具を洗うふりをして男をちらりと盗み見た。がっついている、ように見えるが、汚らしい食べ方ではない。男らしいと言うに相応しいだろう。どこまでも不思議な客だと思う。ともすれば恐ろしくなりそうな雰囲気を漂わせているというのに、根底に冷静さというか、静謐さというか、そういうものがあり、背中の正義がとてもよく似合っていた。

nameは食事を終えそうな彼の為に温かいコーヒーを淹れた。普段なら食後のドリンクは必ず希望を訊ねるのだが、この男がコーヒー以外を飲むところを想像できなかった。案の定、男は白いカップに手を伸ばし、一口つけて目を細めた。

「うちの食堂のコーヒーもこれぐらい旨けりゃいいんだがな」
「皆さんおっしゃいますけどそんなに酷いんです?」
「酷いなんてもんじゃねえ、ありゃァ」

男は腰を上げて会計を済ませると、再び葉巻に火をつけた。

「旨かった。また来る」
「お口にあって良かったですわ。今度は是非、ランチタイムに」
「気が向いたらな」

来た時と同じように二筋の紫煙を靡かせて、男は店を出、片手を挙げた。彼に見えていないことはわかっていたが、nameもまた店を出て、その正義を見送った。潮風に髪が靡く。男の背中を眺めながらnameは、その名前を訊ねそびれたことを思った。


 

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