港で全てを聞いたスモーカーは、彼女の拒絶や20年前の失態やそれにまつわる全ての面倒なしがらみを、何もかも振り払うように走り始めた。魚屋の亭主が後ろから野次を飛ばしているのも聞こえないくらいに死に物狂いだった。とにかく、一刻も早く。スモーカーは「オフィーリア」へ、nameの元へ走り出した。



店のカウンターへ腰掛けて、nameは恐る恐る白い封筒を開けた。数枚の便箋が、静かにnameに読まれるのを待っていた。

「今更……」

これを読んで気持ちが変わったとしても、あんな別れ方をしたスモーカーのところへはもう戻れないだろうし、後悔するかもしれないこともわかっていた。母の字は几帳面に並んでいて、海を眺めていたその横顔を思い出させた。

nameは考える。これまで自分は、いつも誰かのせいにしてきた、と。歩き出すのを恐れた自分は、変わることが怖かった自分は、いつも全てを保留にしてきた、と。スモーカーに出会って、nameは少し変わった。彼の名を知りたいと思った。彼に食事を作ってあげたいと思った。彼と話をしたいと思った。彼の背中を、追いかけたいと思った。nameはスモーカーを、初めて自分から愛そうとしていた。スモーカーはnameとその両親に対して誠実であり続けた。花屋の主人にそう言ったように、彼に誠実でありたいと本当に思うのならば、自分のすべきことは……

彼女は、唇を結んで字を追い始めた。そこには、母の海兵たちへの思いが書かれていた。

「……主人が死んだことは確かに残念です。けれど、私を慕って店に訪れてくれる海兵たちに罪はなく、また私も彼らを責めるつもりにはなれません。責めるべきなのは一部の怠慢でしょう」

nameは、ざわつく心を必死で抑えて母の字を声で追う。

「かつての常連客たちが自分を責めて泣きながら自分に謝罪をする姿は、痛ましくて見ていられません」

胸が詰まって、言葉が出なくなる。

「……私が平気な顔で彼らに接していれば、彼らを事あるごとに、更に苦しめることになるかもしれない。平気な顔で彼らに接していれば、彼らはいつまでも自分たちのことを忘れられない」

「だから、私は、もう彼らが私を訪れることのないように、心を鬼にする事にしました」

「あなた方は、帰港した彼らをいつでも暖かく迎えてあげてください。彼らは二度とこんなことが起こらないように全力を尽くしてくださるでしょう」

「いずれは娘にも、きちんと伝えるつもりです。それまで、我儘を言いますが、どうか私と娘を、よろしくお願い致します」


「……私……わたし、なんて……ひどい、勘違いを……!」

落ち着いた焦茶で統一された店内はひっそりと静まり返っていて、あたたかい陽の光が窓から差し込んでいた。便箋がひらりと手からこぼれた。それを追うように涙が落ちた。nameは顔を手のひらで覆って、抑えることもせず嗚咽した。母はもういないのだという悲しみと、自分の全てを赦されたのだという喜びが、じわじわと身体を満たしていった。店には優しい静寂が漂っていて、その静寂は、まるで海のように、父と母のように、彼女を抱きしめて離さなかった。

しばらくそうしていたnameは、やがて顔を上げ、落としてしまった便箋を拾い上げる。

「酷い顔ね」

食器棚の硝子戸に映った自分の腫れた目を見て、微笑んだ。スモーカーへ別れを告げた時とは違う、心から晴れやかな顔をしていた。



不意にドアがノックされた。



nameは無理矢理頬を拭う。はい、と元気だけはある返事をして、ぼやけた視界のままドアを開けた。視界がさらにぼやける。その原因が葉巻の煙だと気づいた時、見上げたnameは驚きで動けなくなってしまった。

「よう」
「あ、の…」
「あァ?」
「入り、ます?」
「いや、此処でいい」

スモーカーは葉巻の煙を吐き出した。

「酷い振り方をしてくれたもんだ。お陰で魚屋に小言を言われちまった」
「……ごめんなさい」
「まァいい。そんなことを言いに来たんじゃねェ」

nameはスモーカーの顔を見ることが出来なくて、徐々に俯いていった。対してスモーカーは真っ直ぐにnameを見ている。全てを魚屋から聞き、スモーカーはnameの気持ちを察した。その上で、自分のしたいようにしようと決めた。此処へ来る途中、何度も何度も考えた言葉だ。それさえ言ったら、たとえスモーカーはそれを受けてなおnameが自分の元を離れていこうと、笑って送り出すつもりでいた。

「name」
「…はい」
「似合ってた」
「……え?」
「髪も、ドレスも、だ」

顔を上げたnameが見たのは、眉を下げてにっかりと笑ったスモーカーだった。

「それだけだ。じゃあな」

葉巻の煙が、遠ざかっていく。カウベルを鳴らしてドアが閉まる。再び静寂を取り戻した店を、nameは、正解などわからぬまま、それでも、飛び出した。

私は私の時間を生きるべきなのだ。
……違う。

私は、私の時間を、生きたいのだ。
生きたいのだ!

「スモーカーさん!!!!」

nameは涙を流しながら、あらん限りの力を絞って、遠ざかる正義へ叫んでいた。

「もしも……もしも赦されるなら!!」

スモーカーが振り向く。

「また、あなたの為に、コーヒーを……!!!」

淹れても、いいですか

言おうとした言葉はしかし、煙に遮られて声に出なかった。

「name」
「スモーカー、さん、」
「聞きたきゃ何度でも言ってやる。だから、あのドレスは俺のために着ろ」
「……!!!」
「愛してる」

nameはその時初めて彼の能力を見た。怖いとは思わなかった。その煙はとても温かくnameを包み、そして、もう離さなかった。

胸で泣きじゃくりながら何度も頷く彼女に、スモーカーは問うた。

「それで、お前は、どうしたい?」

彼女は背伸びをして耳元で何言か囁き、彼を正義ごと抱きしめた。スモーカーはその言葉に満足そうに頬を弛めて、彼女の背中に回す腕の力を強めた。青い空に向かって、二筋の細い煙が寄り添いながら立ち昇っていく。風と潮騒が、崖のそばの小さなレストランと、ついに結ばれた彼ら二人を、祝福するように、優しく包んだ。



レストラン「オフィーリア」 了


 

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