「nameさん、お店やめちゃったんですね」
「……」
「わたし、誘われたのに、一回も行けずじまいでした」

肩を落としているたしぎを尻目に、スモーカーは顔をしかめた。nameとは、彼女の母の葬儀の日から会っていなかった。彼女の口から直接「店を閉める」と聞いてしまったわけだから、会いに行く口実も消えてしまった。口実なんて作らずに会いに行けばいいのかもしれないが、あれだけ明確な拒絶をされた以上、会いに行く勇気もなかった。

彼女が先程から摘んでいるクッキーは、nameがあの夜の礼にと寄越したものだ。居た堪れなくなり、スモーカーは立ち上がって部屋を後にしようとする。

「あっ!スモーカーさん、まだ仕事終わってないですよ!!」
「……」

呼び止められて振り返ると、デスクの上には書類の塔が今にも崩れそうな形を保っていた。しばらくそれを眺めていたが、やがてスモーカーは睨みつけるたしぎへ目を遣って、珍しく眉を下げた。

「体調不良で早退、とでも言っとけ」


埠頭を歩くと気分も多少は晴れるだろう。スモーカーはらしくないことを思い、港へと歩を進めた。カモメが鳴いている沖は凪いでいるようだった。空は清く晴れていて、青のよく似合うnameのことばかりが浮かんだ。失態だ、と思い、眉間の皺を深くした。晴れるどころか、さっきより酷くなっているかもしれない。

しばらく歩いていると、魚屋の店主が防波堤に座っているのを見つけた。向こうもスモーカーを見つけ、手を上げる。目が合ってしまったので素通りするわけにもいかず、彼は店主の隣に腰を下ろした。

「よぉ大佐、サボりかい」
「ま、そんなとこだ」

店主は貧相な釣り竿を下げていた。まさかここで釣った魚を売っているのでは、と訝しむスモーカーの声なき声を聞き、店主は「趣味だ、趣味」と舌を出す。

「聞いたぜ、nameちゃん、行っちまうんだって」
「あァ、らしいな」
「おれぁnameちゃんは大佐と結婚するもんだと思ってたんだけどなあ」
「フラれちまったモンはしょうがねェ」
「アンタがそんなおっかねえ顔してるからだよ」

不機嫌そうに煙をモクモクと吐くスモーカーに、店主は朗らかな笑みを見せた。

「で、迎えに行かんでいいのかい?」

無言のスモーカーに、魚屋は水面を見つめる。水面に、渋い顔のスモーカーとさっぱりした店主の顔が映っている。釣り竿はしなる気配を見せない。

「そうだなあ。色々あったからなあ」
「!」
「でも、そろそろnameちゃんは、自分の時間を生きにゃいかんな」
「……」
「おれが何も知らねえと思ってたろ?大佐」

水面が揺れた。魚屋はまだ笑っている。

「ウチは100年以上前から続く、伝統のある魚屋なんだよ」



「本当に行くのかい?nameちゃん」
「ええ。父も母も私も、おばさんには色々よくしてもらったけど……」
「大佐のことは?いいの?」
「……いいんです」

nameは、花屋の店先で女主人と話していた。スモーカーとは、あれから会っていなかった。彼に直接「店を閉める」と言ってしまったわけだから、会いに来てもらう口実もなくなってしまった。口実なんて作らずに会いに行けばいいのかもしれないが、あれだけ明確な拒絶をした以上、会いに行く勇気もなかった。女主人はnameの手を握り、頻りに考え直すよう勧めてくるが、彼女は穏やかに頭を振った。

「彼は、誠意を持って私と母に接してくれたので」
「……」
「私は、彼の誠意を裏切りたくないんです」

そう言うnameはしかし、言いながら俯きがちになっていく。嫁入り前で整えられた黒髪が、短くなりつつも美しく艶めいた。女主人はそんなnameの様子を見てため息をついた。

「全然良くないでしょうに」

主人は、nameを軒先に残したまま店の中に引っ込んだ。やがて彼女は、一通の手紙らしきものを携えて出てきた。

「これ……」
「あんたの母さんが、20年前にあたしと魚屋さんに寄越した手紙だよ」
「……」
「家に帰って、それ読んで、それでもそうしたいなら、それは破り捨てなさい」

花屋の主人はそれだけ言い残すと、店へ戻っていってしまった。

nameは懐かしい母の字を封筒に認め、街の往来に佇んでいた。今更、何を読んだって、自分の気持ちを諦めると決めてしまった以上、それが揺らぐとも、彼に許してもらえるとも思えなかった。それでも……母が自分に残した最後のメッセージだから、と。そう自分を無理矢理納得させ、本当はスモーカーの元へ走り出したいと思っている自分を、許した。


 

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