アンチロマン
××のママは、どうやら××のことがキライだったらしいのでした。
それに気がついたのはいつのことでしたか。
その日、××は確か、陰湿なことばかり書いてある小説を読んでいました。その作者が自殺したことを××が知らなかったのは、××は作品に価値はあってもそれを書いた誰かには価値がないと思っていたからです。死んだか生きているのか、女か男か人間か天竜人か、そんなこと、××には心底どうでもよかったのです。でもママは、蜘蛛が嫌いで赤が好きで海賊が嫌いでお酒が好きで雨の日が嫌いで洗い立ての洗濯物が好きで自殺が嫌いでセックスが好きでグリーンピースが嫌いで苺が好きで娘の××が嫌いでパパが好きな人で、××なんかよりもずっとまともに分類されてもおかしくない人間でした。
ママは××の手から本を奪い取ると、「陰湿女」と言い放ち、ソファの上で体育座りをしている××を見下ろしました。
××はそれをただ俯瞰的に見たいなあとぼんやり思って、それでようやく、ママの瞳に映っている××の容姿が、ママが嫌いなママの部分とママが嫌いなパパの部分を混ぜたような形をしていたことに気がついたのです。

「××はママと違って、セックスが大嫌いなんだよ」
隣で生きている男の体温は、生温いを通り越して熱い、熱くてたまらないのです。触っていると夏の日のゼリーのように溶けてしまいそうだとさえ思います。数時間前まで冷えていたベッドの上のシーツはすっかり暖かくなっていました。隣にいる男は、××の髪の毛をいじっていたその手を止めて、いまにも死にそうな顔をしました。
「……俺はもう来るなってことかよ」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、何なんだよ」
「うーん、と、ね……」
エースくんと××はいつも一緒にいるわけではないのです。エースくんは海に生きて、多分海に死んでいくのでしょうし、××は小さな島の小さな部屋の中で、呼吸をしているのみです。エースくんはそんな××に会うためだけにこの島に立ち寄りますが、××がエースくんのために海に行ったことは一度もありません。××とエースくんの生き方はあまりうまく交わらない、それは××本人が一番よく知っていて、エースくんも多分知っているでしょう。××はエースくんじゃないので本当のことはよくわかりませんけれど。
××はエースくんに抱きつきました。××はセックスが嫌いで自傷行為だと思っていますが、ハグは大好きなのです。エースくんはそれを当たり前のように受け止めました。エースくんがハグをされると嬉しいことも、××は勿論知っていました。
「……××は、バナナが好きじゃないの」
「おう」
「でも食べられないわけじゃない。たとえばエースくんとレストランに行った時。たとえばママが夕食に出してきた時。そういう時、××は『バナナがまずいなぁ』って思いながら、バナナを食べるの」
「……つまり?」
「そういう話だよ。セックスが嫌いだけどエースくんとセックスするのは、その話と同じです」
思えば、むかし、一度だけ、××はパパとママのセックスを見たことがあります。その次の日に朝食を食べたのはパパと××だけで、ママはお昼頃に起きてきました。その時のパパは××に「ごめんなぁ」とよくわからない言葉を発して、××の好きなオレンジジュースを注いでくれました。ママは××がオレンジジュースを好きなことを、多分今の今でも知らないのでしょう。ママはセックスが好きで、多分パパはそうではないのだろうと、そしてママは××が嫌いで、パパはそうでもないのだろうと、××はその瞬間に思ったのです。
エースくんは××がオレンジジュースを好きなことを、知っているのでしょうか。
「わかんねえ」
「うん、××も、もうよくわかんない」
たぶん、エースくんはセックスが好きなのでしょう。お前が俺に縋るたびに愛を感じることができる、と少し前に呟いてたようなことを覚えています。でもセックスは愛が無くてもできるし、バナナはどんなに好きじゃなくても胃に入るし、子どもは産みたくなくても、そして産まれたくなくても、産まれるときは産まれます。
エースくんはきっと、それを誰よりも理解しているはずなのに、××の前ではその素振りを一切見せません。
「××」
この世でそう呼ぶのは、エースくんだけでしょう。
その名前をつけたはずのママは一度も呼ばず、一緒に住んでいたパパだって、××の名前を呼んだことは一度もありませんでした。
唇をエースくんが触りました。エースくんは多分キスが好きで、××はキスはどっちでもよくて、ママは嫌いで、パパもどっちでもよかったと思います。
でもあの日の夜、ママとパパは確かに行為をしながらキスをしていました。ママはキスが嫌いで、パパはどちらでもいいのに、キスをしていました。それがすべてなんだな、とあの時の××は思いましたし、それは今でも変わりません。
「××」
と、エースくんはもう一度××を呼びました。それはどこかに咲く花の名前だと、××はむかし、お酒を飲みながらママが教えてくれたことを思い出しました。

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