メルト・メルティ・メルティッド
バレンタインデー、つまりは二月十四日の日に、教室内で周りがざわつく中、一人リュックサックを背負って帰ったことをよく覚えている。高校生の頃だ。可愛らしい袋を開けるがさごそとした音と、チョコレートの強い甘い匂いと、行き交う「ありがとう」の声を背に、ただ家へ帰ったら何の本を読もうかだけを考えていた。
コミュニケーションが嫌いで下手で、友人も恋人もいなかったわたしにとって、学生時代のバレンタインの思い出は、そんな感じだった。その頃に読んでいた本のことはもううまく思い出すこともできないのに、かつてバレンタインの日に抱いた居心地の悪さを、わたしは今でも覚えている。



その日は晴れているのに、随分と寒い日だった。それとも、晴れているからこそ寒いのだろうか。その辺りはわからないけれど、とびかく赤いチェックのマフラーを巻いているわたしは、ぼんやりと、ただ人を待っていた。
「やあ、お嬢さん」
目の前から、キャメルカラーのコートを纏った男の人が来る。きらきらと陽の光で煌めく金髪はいつ見ても眩しい、と少し目を細めたわたしは彼に手を振る。わたしの本日の待ち人ことフランシスだった。
「こんにちは、フランシス」
「こんにちは。今日も君は慎ましい菫のような愛らしさだね」
フランスという国に訪れて随分と経ったからか、わたしはいつの間にか、フランス人の口から飛び出すロマンス映画のように甘くてとろける言葉に驚かないようになっていた。すげーという単純な感嘆はするけれど。
「お嬢さん、本日は何の日かご存知?」
「二月十四日だね」
「……つまり?」
「……わたしから言うの?」
「君から言ってほしいの」
「……バレンタインだね」
「うん。というわけで、どうぞ」
「うわぁ」
すげーとまた静かに驚く。「ありがと」とわたしはそれを受け取って、顔を近づける。彼が後ろに隠していた赤い薔薇の花束からは、甘い香りがして、花瓶あったかなと家の中のことを思い出した。
「じゃあ、わたしからも、」
そう言ってバッグから紙袋をわたしは取り出した。日本の漫画やアニメに詳しいフランシスはどうやら手作りのチョコレートに憧れがあるらしく、それとなく頼まれたわたしは小学生ぶりくらいのお菓子作りをせっせと行ったわけだった。
「メルシー。大切にするよ」
「いや、食べてね」
彼の冗談にそうやって軽く返して、わたしはバレンタインに思いを馳せる。何も起こらなかったかつてのこの日は、人と人との想いが絡まりぶつかり溶け合って、怖いくらいに苦しかった。目には見えない感情を、いつか移りゆく感情を、どうして信じていられるのだろうか。
──そんなあの頃のわたしの声が、わたしに降り注いだ。
気まずそうに目線を下にするわたしに彼は目ざとく気がついたようで、「なにか心配事?」と尋ねてきた。わたしは彼のそういうところが好きで、ちょっと嫌だった。
「べつに、記念日とかお祝いごとが嫌いなわけじゃないけど、でも、そんなに好きでもないから、」
「うん」
「だから、なんだろうね。これって」
これ扱いをしてしまうのは申し訳なかったけれど、それでもわたしはこれが怖かった。
いつかこれが散ってしまうことも、彼が本当のところ何を考えているのかわからないことも、わたしがいつかこれを忘れてしまうかもしれないことも、全部が怖くて、泣きたかった。実際涙は一粒も出てこなかったけれど。
「……表現の一つだと、俺は思ってる」
優しい言葉が、黙り込んだわたしの頭の上から降ってきた。思わずフランシスの顔を見る。そこには、薔薇の香りよりも、チョコレートの味よりも甘い、フランシスがいたのだ。
「誰かを想うことは大変なことも多いし、変わっていくこともあるけど、でもその瞬間だけでも本当で、幸せだって信じているから。それが形になったのが、薔薇しかり、チョコレートしかり、あるいは言葉なんじゃない?」
それを聞いたわたしは、よかった、と思えたと同時に、寂しい、と思った。高校生の時のわたしの周りに人がいなかったことを忘れてしまいそうだったから。でもそんなわたしがいることで今のわたしがいるのも事実だった。あの頃の延長戦には今のわたしがいて、今のわたしが彼からの感情を受け取れていてよかった、と思った。

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