時計仕掛けの終末論
「────おい、大丈夫か?」
廊下で蹲っているわたしを目敏く見つけた彼は、当たり前の顔をしてわたしの横にしゃがみ込んだ。左手はわたしの背中をさすり、右手は高そうなハンカチをわたしに差し出している。
保健室前の廊下には、人はあまり来ない。それは保健室という病人のための場所だからという配慮からではなく、ただ単に校舎の一番隅にあるからというただそれだけの理由で人がいないだけだ。
それでもゼロというわけではない。保健室を利用する者は必ずこの廊下を通らなくてはいけないし、別に通行禁止になっているわけでもない。
だから彼はここを通りかかったのだろうし、わたしは保健室に行くためにここにいた。
だからと言って、リュックサックを抱えて吐きそうで泣きそうな顔をしているわたしにわざわざ声をかけてくるのは、正直お人好しの一言で片付けるには少々気持ち悪いものでもある気がする。
わたしが今泣きそうなのはわたしの問題だし、誰に何を言われたからって何も変わらないし、別に何も大丈夫ではない。「大丈夫?」という問いかけは、「大丈夫じゃない」という返答を聞きたいためにされるものではない。だからわたしは、そのハンカチを受け取らず、「だいじょうぶ、です」と言って、すぐに保健室に駆け込んだ。後ろは振り向かなかったから、名前も知らない容姿もよく覚えていない男子生徒とはきっとこれきりになるだろう。
突然保健室に飛び込んできたわたしを見た養護教諭はあまり動揺もせずに「おはよう」と声をかけてきた。わたしは「おはよう、ございます」となんとか返して、いつも座っているソファに倒れ込むように座った。
壁の時計をちらりと見る。十二時と十三時の間の時間である現在は、お昼休みの時間だった。



「失礼します」
そんな一言と共に、誰かが保健室へ入ってきたのは放課後になってからだ。わたしが駆け込み訴え(特に訴えてはいない)した後には誰も来ず、養護教諭は仕事をしていてわたしは本を読んだりスマホでSNSを見たりしていた。
「会議行ってくるね」と十分ほど前に保健室を出ていった養護教諭の名を心の中で叫びつつ、わたしは「どうしました?」とできるだけ平然と返すように心掛けた。
「あれ、お前朝の……」
「……………………えっ?」
そう目の前の彼に言われてみれば、確かにその声質と髪色に聞き覚えと見覚えはあった。今日わたしに声をかけてきた例の男子生徒だった。
それに気がついたからといって、わたしから言いたいことは何もないし、彼もそこから口を開くことはなかった。無言の時間が少し長く続く。
「……あの、えっと……、ご用件は……?」
結局わたしから口を開くと、彼もハッとしたように口を開き「あ、ああ。針で指を刺した」と説明をしてくれた。
「先生ならいませんが、」
「ああ、自分でできる」
「絆創膏と消毒はそこの棚に……」
わたしが棚を指すと彼はお礼を言って手際良く自身の指に絆創膏を巻いた。それが終わったのを見計らって、「あ、あとここに名前を書いてください」とわたしは彼にバインダーに挟まれた紙を渡した。
彼は名前と日にちと時間帯と怪我の理由を書いた。ちらりと見ると、そこには筆記体で「アーサー・カークランド」と書かれていた。さらに確認すると、どうやら同学年だったらしい。歳上の先輩だと思っていたから、少しだけ驚いた。
「お前は保健委員なのか」
書き終えた彼はバインダーを机に置くと、わたしの座るソファへと座り、そして会話をしようとしてきた。「な、なんで!?」と思いつつ、わたしは「違います」と答えた。
「じゃあなんで、保健室にいるんだ?」
「具合が悪そうにも見えないし」と彼は続ける。わたしはどこまで説明するか悩んだ。保健室登校をしているから、とそれだけを言うことは簡単だけど、その後にじゃあなんで保健室登校をしているのか、と絶対に聞かれるだろう。その辺のことを説明をするのは面倒くさいし、話した結果、何かしらの偏見的物言いをされることも嫌だ。だからわたしは「落ち着くので、いるんです」とそれだけを言った。それはわたしが想像していたよりも突き放したような声で、ああ今わたしはこの人に対して境界線を引いたんだな、と他人事のように思った。
彼も彼で、きっと雑談みたいな気軽さでわたしに話を振ったのだろう。「そうか」とそれだけを言い、特に深掘りはされなかった。
治療が終わり、わたしが線を引いたというのに、彼はその場から離れようとしなかった。わたしとしては気まずいただそれだけだったので、できればさっさと去ってほしかったのだが、面と向かって言う勇気はないし、かといってテレパシーがあるわけでもないので、ただ心の中で静かに祈るしかできなかった。
「なあ」
「……っ、ぇ、あ、はい」
そうして長い沈黙の後、彼は口を開いた。何のためなのかはわたしにはわからず、とりあえず相槌のような返事をするだけで精一杯だった。
「お前、保健室登校ってやつか?」
────その一文が聞こえてきた瞬間、わたしは彼を衝動的に殴りつけたくなった。頭がそれだけに支配されたように、真っ白になった。ころしてやる、って思ってしまった。
それでも実際に行動に起こすことはなく(それが理性が働いたからなのか臆病だからなのかはわからない)、わたしはその場で完全に固まってしまった。ただ、目の前の何も知らない男に対する怒りがあるだけだった。
彼は案外察しがいいのか、黙りこくるわたしを見て、「悪い。突然で驚いたよな」とつかさず謝罪をした。謝罪するくらいなら最初から喋るなよ、と内心で毒付く。
「……………………そうだよ」
わたしは小さな声で答えた。彼が「え?」と聞き返してくることに腹を立てながら、「保健室登校、してるよ」と続けた。
「でもそれに何か問題あるの?貴方に迷惑かけたこと、あったっけ?」
「……問題や迷惑、というわけじゃなくてだな……」
戸惑っているような彼の声を耳に入れ、迷惑はかけたかもしれない、とわたしは自分の発言と行動を思い出す。今日のお昼、廊下で蹲っていたわたしは迷惑以外の何ものでもない。それでも、手を差し伸べてきたのは向こうだし、ならば最初から透明のごとく無視をすればよかった。じゃあやっぱり、わたしは彼に迷惑をかけていないはずだ。
「……俺は、生徒会長なんだが」
何自慢?それとも見下してる?、とは言わなかった。流石に、言葉に棘を含ませ続けるのは、わたしの精神衛生的にもあまり良いことではない。
わたしは彼の次の言葉を促すように黙っていた。
「何かクラスに問題があるとか、教師に何か言われたとか、そういうことが原因だとしたら、何か力になれると思ったんだ」
「…………だから、聞いてきたの?」
「ああ」
わたしはそこで、横にいる彼の瞳を目に入れた。エメラルドグリーンの瞳は、わたしから決して逸らさず、射抜くようにそこにあった。
その瞳を見て、ああ、彼は本気でわたしを救いたいと思っているんだ、とわたしはわかってしまった。わかってしまったから、わたしは彼に言わなくてはいけないことがわかった。
「────ないよ」
そんなわたしの声は、大して広くない室内に響いた。わたしは彼の目から逸らさずに、そう拒絶した。
彼の目が大きく見開かれていく。それは、今まさにわたしが目の前の一人の人間を傷つけていることの証拠でもあった。
「カークランド君にできることなんて、何もないよ」
わたしはもう一度、そう言って断絶をした。壁を作り、尊重せず、切り捨てた。わたしの中で、彼の存在はもうそういうことになった。
その場で呆然とするカークランド君をそのままにして、わたしは立ち上がった。リュックサックを背負って、そして彼に背を向けた。
「じゃあ指、お大事に」
わたしは彼の顔を見ずに、扉を開けて、そして廊下へと出た。びしゃん、と思ったよりも大きな音を立てて扉は閉まった。
放課後の部活動の時間だというのに廊下は不気味なまでに静かで、わたしはそれらを振り切るように下駄箱へと駆けた。

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