異端彩姉弟物語
「鬼太郎」と花びらのように軽やかに自分の名前を呼ぶのは姉だけであると鬼太郎は知っている。すぐさま振り返ると、宝玉のような瞳に自分が映っていた。姉は自分だけを見つめている。だから鬼太郎も、姉のことを見つめ返した。
「何ですか、姉さん」
「呼んだだけ。姉さんて呼ばれたいから、呼んだだけ」
ふふふ、と両手で口元を隠し、面白おかしそうに笑う姉を見て、鬼太郎は軽く溜息をついた。姉の言動も行動もいつものことだ。呆れるくらい繰り返された日常だった。だがそれを愛おしいと思っている自分も否定できない。だから鬼太郎は、毎回律儀に彼女を「姉さん」と呼ぶ。
鬼太郎が姉と呼ぶ女は、実のところ鬼太郎と血の繋がりはない。なんなら彼女は人間である。そして別に一緒に暮らしていた期間があったというわけでもない。ただ、突如として彼女は鬼太郎の姉となり、鬼太郎は彼女の弟となった。長い髪を揺らし、花の香りを纏わせて、ひらひらふわふわとした軽やかなワンピースを着て、いつの間にか鬼太郎の側へと現れ、いつでも笑みを浮かべながら「鬼太郎」と呼ぶ。それだけがいつだって変わらずにある。それが鬼太郎にも気付かぬうちに、鬼太郎の日常へと変貌していた。
「ごめんね、拗ねちゃった?」
「……拗ねてないです」
「うふふ、ごめん、ごめんね。代わりにお姉ちゃんとお出かけしよう。おいしいものでも食べに行こう」
そうやって無邪気に笑う顔を見て、差し伸べられる手を見て、煌めきを持った瞳を見ると、鬼太郎の元にはいつだって彼女の手を取る選択肢しかなくなっている。それが嫌ではないのが、いつだって少しだけ悔しくて、結構嬉しい。



「……あの、姉さん」
「なあに、鬼太郎」
「全然美味しいものが食べられる場所じゃないですよ」
「あら、鬼太郎は想像ではお腹が膨らまないタイプ?」
「大抵の生き物はそうだと思いますが……」
「じゃあ私は大抵じゃないってこと」
姉が鬼太郎の手を引いて連れ立った場所は、街で一番大きな公立図書館であった。こういう人だった、と鬼太郎は、ぬいぐるみみたいな顔をしたクマ二匹がホットケーキを作っている絵本を横で読んでいる姉を見る。「ほら、おいしい」と姉の笑みと、彼女の指さす挿し絵を見比べた。黄色と茶色で描かれたそれは、写実的ではなかったけれど、まあ、確かに、美味しそうではあった。
「あとは、なんだろう。この辺りとか」
「はあ」
そうやって姉が本棚から取り出したのは、やはり食べ物の挿し絵が載っている絵本ばかりだった。やっぱりこの人って変だよなぁ、と鬼太郎は思いつつも、「ね?おいしい」と絵を指差す姉に「そうですね」とただ相槌を打った。
「姉さん、楽しいですか?」
「うん、楽しい。本が好きだし、静かなところが好きだし、鬼太郎のことが好きだから、楽しい」
「……そうですか」
ならもういいか、と鬼太郎は思う。それは諦めではない。何だかんだ、自分は姉に甘いのだ。いつだって姉が嬉しそうで楽しそうで幸せだったら、もうそれでいいと思うようになっていた。いつの間にか、姉が隣にいることが違和感ではなくなった頃から、そう思うようになってしまった。
「姉さん」
「なあに、鬼太郎」
「なんで、僕を弟にしたんですか」
それは、ずっと聞きたかったことだった。
姉の動きが止まる。そして彼女は首を傾げ、笑みを浮かべたまま、隣にいる鬼太郎を見た。
「どうしてそんなこと聞くの?」
ゆらゆらと揺れる長い彼女の髪の毛は、幽霊族のように簡単に伸ばせるものではない。ここまで伸ばすのに一体どれくらいの時間が必要なのだろう、と鬼太郎はぼんやり思った。
「ごめんね、責めてるわけじゃないの。ただ、鬼太郎がなんで今改めてそんなこと言うのかがわからなくて」
姉は眉を下げて、弁解するように言葉を付け足した。
「いえ、僕こそ突然でごめんなさい。ただ、何で僕だったのかなって思っただけです」
「なんで、って、私説明したことなかったかな」
「ないですよ」
鬼太郎が少し呆れたようにそう言うと、彼女はふふふと笑い、そして大切な秘密を大事な人に喋るように、鬼太郎の耳元へと近づいた。
「すごく昔にね、あなたを見たの」
小さな声で、少女は囁くようにそう言った。
彼女は紛れもない人間だ。そんな彼女の言う『すごく昔』とはいつだろう、と鬼太郎はぼんやりと思った。
「遠目からでもわかった。沢山の人を助けていたあなたの姿を見て、私思ったの。一等優しいあなたを私の大切にしたいって」
「…………だから、弟?」
「うん」
「そこは、恋人や親友じゃないんですか?」
「恋人とか親友は後から誰とだってなれるでしょう? 姉と弟は、出会う前から約束と運命で結ばれて名付けられている関係だから、私はそれがよかったの」
鬼太郎には正直目の前で語られる姉の理論が理解できなかった。ただ、姉はそう考えるのか、とだけを思った。姉は姉弟が恋人や友人よりも強い繋がりだと信じているから、鬼太郎を弟に選び、自らを姉と名乗った。
「──それにね、私が貴方を弟として選んだと同時に、貴方も私を姉として選んだのよ。私を姉だと否定しないってことは、そういうことなの」
それは、確かに、そうかもしれない、と鬼太郎は内心でひとり納得した。
自分は彼女を拒んでいない。血のつながりはないが、彼女が自分の姉であることを鬼太郎は認めている。そしてそれこそが彼女と自分を繋いでいるものでもあるのだ。
「……でも、それって姉さんが妹で僕が兄っていう形じゃあ駄目だったんですか」
鬼太郎のそんな純粋な疑問に、少女は目を丸くした。まるで思い付かなかったみたいなその顔が、何だか可愛らしくて鬼太郎は少しだけ笑った。
「まったく考え付かなかった……」
「えぇ…………」
「……うーん、でも今考えてみても、鬼太郎は兄っていうより弟って感じの生き物だから」
長い髪を揺らし「ふふふ」と笑う姉の思考は、やっぱり理解ができない。それでも、彼女から「兄さん」と呼ばれるよりも、彼女から名前を呼ばれる方が、確かに嬉しい気がする。
きっとこれからどんなことがあっても、彼女は自分の姉でいるだろう、と鬼太郎は確信にも近い何かを感じた。いつだって隣で髪を揺らして笑っていてほしいと願った。





「私は貴方のそういうのじゃない。私は貴方の姉ではないし、貴方は私の弟ではないよ」
──彼女は誰だろう、と鬼太郎は思わず自分の目と耳を疑った。
彼女はある日突然、鬼太郎の前から姿を消した。何処か遠くの街へと引っ越したらしいと鴉たちから聞いたが、鬼太郎は初耳だった。姉が自分に何も教えてくれてくれなかったことが、彼の心に傷をつけた。そんな傷を抱えて十数年が経った。妖怪ポストに入っていた依頼のために来た街でカランコロンと下駄の音を響かせながら鬼太郎が道を歩いていると、その後ろ姿を見つけたのだった。少し伸びて結ばれた髪と落ち着いた色の服、そして変わらない雰囲気。間違いなく、彼女で姉だった。彼女が自分の傍から離れてから今まで、彼女の人生に何があったのか鬼太郎は知らない。だが、鬼太郎は迷うことなく声をかけた。それが間違いではないと、それこそ自分のしたいことであり、そんな自分を彼女は受け入れてくれるだろうと、彼は信じ込んでかつての少女だったその女性に話しかけた。
────それが、このザマだ。
対峙している濁った黒色の瞳は鬼太郎を映しているはずなのに、そこには以前のような煌めきは存在していない。鬼太郎のことが大好きであるという、そんな気持ちが詰め込まれていた瞳は、もう死んでしまったのだろうか。
「何で、ですか」
鬼太郎の声は震えていた。目の前の女性の言うことがどうしても信じられなくて、対峙しているはずなのにその場にいないような、そんな心地に陥った。
「だって、永遠なんてないから」
彼女は眉を下げてそう言った。それがあまりにも痛々しくて、鬼太郎は見ていられなかった。今すぐにでも抱きしめてしまいたかったが、自身の身体は固まって動かなかった。
そうだ、鬼太郎は幽霊族で彼女は人間だ。鬼太郎は永遠にも近い時間を過ごすだろうし、死という概念もあってないようなものだ。しかし彼女は──、人間はそうではない。時が流れると共に変わってゆくし、いずれ必ず死んでゆく。そういう生き物だ。
「貴方も、私のことを姉さんなんて呼ばないで、大人になるのよ」
大人って、何ですか。
口には出さなかったが、鬼太郎はそう彼女に伝えたかった。
物分かりが良くなることですか。変わっていくことですか。信じていたものを信じなくなることですか。僕を置いていくことですか。
永遠がないことを、貴女は知ってしまったんですか。だから僕の傍からいなくなったんですか。
ねえ、
「姉さん」
思わず鬼太郎の口から出たその言葉は、何年も発していなかったのに口に馴染んだ。ここ十数年、ずっとこれが言いたかったのだろうということに、鬼太郎はようやく気がついた。
目の前の彼女はそれを聞いて、絶望したような、そして泣きそうな顔をした。え、と鬼太郎が何か反応する前に、彼女は叫ぶように声を出した。
「もう姉さんなんて呼ばないで!」
鬼太郎は唖然とした。こんなふうに取り乱した彼女を、彼は今まで一度も見たことがなかった。
──だからこそ、自分はもう彼女を姉と呼ぶべきではない、姉と認識してはいけないと鬼太郎は思った。
「──じゃあ、名前を呼ぶよ」
鬼太郎は静かに、彼女からは目を逸らさずに、そう言った。
きっと姉と弟という名前を捨てる時が来たのだ。姉弟の関係を壊して、新しい名前をつけるべきなのだろう。
鬼太郎が今、彼女と対峙してすべきことはそれなのだと、それこそが今自分たちの間にある運命なのだと、彼は祈るように口を開いた。
「僕は鬼太郎。初めまして。貴女の名前を、教えてください」
鬼太郎は彼女に手を差し伸べた。握手を求めるように、地獄に垂れる蜘蛛の糸のように。
彼女は呆気に取られたような顔をして、鬼太郎を見た。そして鬼太郎は、彼女から決して目を逸らさなかった。
「またここから始めませんか。僕と貴女を、もう一度」
彼女を姉と呼ばなくなったって、そして自分が弟ではなくなったって、彼女と鬼太郎は終わりではない。むしろそこから始まるのだ。

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