まるで彗星
その子とはじめて出会ったのは、まだ僕の年齢が一桁の頃だった。丸い月が空に浮かんでいる、それは綺麗な夜だった。
その子の母親と僕の母さんは長い付き合いらしく、その付き合いの延長線で、僕と彼女は知り合った。
彼女の母親の趣味が観劇らしく、とある舞台のチケットを母さんと僕にもくれて、僕は日本でもそれなりの大きさと歴史を誇るらしいある劇場へと足を運んでいた。
いつもは着ないようなきっちりとした服を着た僕は、母さんの手を掴みながら辺りをあちこちと見渡していた。煌めくシャンデリア、大理石とその上に敷かれた鮮やかなカーペット、、スーツやドレスを着た様々な年代の人々、誰かか何かを讃えるための大きな花、祝花、大きな柱時計、飾られたポスターには羽の生えた少女が一人いる。その全てが全くもって未知の体験だった。
「広海ちゃん」
遠くから母さんを呼ぶ声がする。母さんに向けて手を振っている女性と、その女性に手を引かれている女の子。母さんも女性に向かって手を振った。
「見つかってよかった。大丈夫だった?」
「大丈夫よ。それにしても、大きな劇場。すごい煌びやかね」
「そうなの。チケットも取るの大変で────」
母さんとその女性が話し始めて、僕はどうすればいいのかわからなくなって、少し辺りを見渡した。そして僕の視線はそこで止まる。女性のスカートを握っている、僕と同じくらいの身長の女の子が、そこにはいた。
「……こんにちは」
「あ、えっと、うん。こんにちは」
最初に口を開いたのは彼女からだった。淡い水色のワンピースの裾を摘んで、軽やかにお辞儀をした。長い前髪の隙間から見え隠れする宝石のような瞳に、少しだけ胸がドキドキとする。
「ほら渚。挨拶して」
「××も。名前言って」
僕らの様子に気がついた母親二人が僕らに目線を向けた。僕の背中を母さんが優しく押す。「潮田渚。えっと、よろしくね」と僕が手を伸ばすと、彼女は「……××××」と言って、彼女の母親の後ろに少しだけ隠れつつも、手を握ってくれた。
「××ちゃんって今いくつなの?」
「渚くんと同い歳だよ。仲良くなれるんじゃないかと思って──」
母親同士が会話をまた再開させると、僕と彼女の手は離れた。そして彼女は僕をちらりと見たり、そしてすぐ逸らしたり、でもまた見たりを繰り返していた。
「……舞台って、たのしい?」
僕の言葉に、彼女が遅れて「……え?」と反応した。彼女が首を傾げて、それと同時にさらりと長髪も揺れた。やっぱり僕の胸はまたドキドキと動く。
「舞台について、何も知らないから」
「……たのしいよ、すごく。ぜんぶがキラキラしてて、現実じゃないみたいで、すてき」
言葉と共に、彼女の瞳もゆらゆらと煌めく。きれいだ、と瞬間的に思う。そうやって僕は、彼女の瞳にまるで初恋のように見惚れていた。
「──あ、もうすぐ始まる。行きましょう」
と言ったのは彼女の母親だった。柱時計の針は、六時の十五分前を指している。彼女の瞳の輝きは一層強くなっているように僕には見えた。


右隣の席に座ったのは母さんで、左隣には彼女が座った。ちらりと隣の彼女を盗み見ると、彼女の瞳は相変わらずきらきらと煌めいている。
やがて少しして、開演を知らせるブザーが鳴る。幕が上がって、白い光が舞台の上を照らしていた。
『──これはずっと遠いお話。あなたじゃない貴方の物語。星の煌めきを掴めなかった話。星の眩しさに届かなかった話────』
そうやって物語は始まった。静かなハープのような声だった。
そこからは閃光のように時間が過ぎた。目の前で行われているのは間違いなく現実なのに、全てが非現実的に思えて仕方がなかった。
白い羽を持つ少女が、夜空に輝く星に手を伸ばして、そして近づきすぎた結果、羽を焼かれて落ちていくそんな話だった。
白に近いスポットライトが舞台を照らして、そこに一人の少女が残されたまま、幕は降りていった。
静かだった客席からは打撃にも近い拍手が鳴らされていた。僕も、そして彼女も小さい音ながら拍手をする。今の気持ちを言葉にする代わりの行動が拍手なのだと、その時気がついた。
「──やっぱり、眩しい」
そう呟いたのは彼女だった。いつのまにか僕らは手を繋いでいた。それがどんな言葉よりも雄弁な気がしたから、僕は「うん」とそれだけ言って頷いた。そして、彼女の横顔をちらりと見る。
それは僕が初めて見る表情だった。
それに名前をつけることが当時の僕にはできなかったけれど、今の僕なら何となく理解ができる。僕は彼女の瞳に星を見たのだ。





「なぎさ君」
と彼女が僕を呼ぶ。彼女の僕の呼び方は、なんというか、幼さが残る。舌足らずというか、間伸びしているというか、とにかく昔から変わらない。それこそ、初めて出会ったあの日からずっと。
それは、久しぶりの再会だった。
初めて会った5歳の時から、僕と母さん、そして彼女と彼女の母親で、一年に数回、あの劇場でやる演目を見に行くことがあった。あとは、いつのまにか劇団に入ったらしい彼女の演じる舞台を見に行くこともあった。
化粧をして、素敵な衣装を着た服を着て、スポットライトを浴びている彼女は、本当に眩しくて、僕は彼女が舞台に立つ日がいつだって楽しみだった。
──そして、そんな行事たちは僕と彼女が中学三年生になって、もっと詳しく言えばE組に行ったことと彼女のレッスンが忙しくなったことでなくなり、彼女と僕はたまの手紙やメールでのやりとりでコミュニケーションが増え、直接会うことはなくなった。
その日の朝は冬休みで一番寒かった。白いマフラーを巻いた彼女は、気がつくと僕の目の前にいた。車一つも人一人も通っていない、とある路上でのことだった。
「え、あれ……、もしかして、××ちゃん?」
「うん。もしかしなくても、××××」
ひさしぶり、と彼女が言う。僕も久しぶり、と言って、そこで会話が止まった。何を話そうか悩んで、結果的に何も言えなくなってしまった。彼女はじっと僕を見て(多分僕が何か言うのを待っていたのだろう)、そして僕が何も言わないのを確認してから、口を開いた。
「──なぎさ君、今、何してるの?」
「…………え、今?」
「うん、今」
今……。僕は道にいる。立っている。先程まで歩いていた。あてもなくふらふらと散歩をしていた。殺せんせーのこととか将来のこととか、そういうぐちゃぐちゃの思考をどうにかしようと、ただ空っぽの心を抱えたまま。
それをどうやって表現すべきか悩んでいると、彼女は僕の答えを待つことなく口を開いた。
「なぎさ君は、自分が舞台の上に立ってるって思ったこと、ある?」
「…………舞台に立ってるのは、君じゃなくて?」
「違う。わたしは、とある演目の舞台にはいる。でもそれは刹那的で、一瞬で、永遠からは程遠い。記録にしか残らない、ただの演劇。────でも、なぎさ君の立っている舞台は違う。宇宙で煌めく遠くの星のように、手を伸ばしたくても届かない。眩い永遠のような一瞬。誰もが待ち望んでいる約束された運命」
「……ごめん、どういうこと?」
「わからなくていいよ。わたしのいる舞台と、なぎさ君の立っている舞台は違うっていう、そういうはなし」
そう言った彼女は一息ついて、僕の瞳をじっと見つめていた。
「じゃあ、もう一回聞くね。なぎさ君、今なにしてるの?」
確かに、彼女が言ってることも言いたいことも全部はわからなかった。けれど、なんとなく、立っているとか歩いているとか、きっと彼女が聞きたいのはそういうことではないのだろう。それだけはわかった。
僕の立っている場所。僕だけの舞台、人生。
「……とても、重要で大切なことを決断するために、迷ってる。僕のするべきことで、僕がいるべき場所。僕が終わらせるべき舞台で、僕が立っている舞台」
彼女は一拍置いて、「そっか」と相槌をした。
「それが、なぎさ君の舞台なんだね」
「…………うん、そう。きっと、そうだね」
彼女のきっぱりとしたその言葉に、僕も頷く。そうだ、僕はそういう舞台に立っている。言葉にしてしまえば、それは随分と簡単に受け入れることができた。





────それからしばらくの間が空いて、次に彼女と会ったのは、三月の終わりだった。やるべきことを終えて、前へ進んで、新しい場所へと辿り着いた後のことだった。
「なぎさ君」
と彼女はやはり同じように僕を呼んだ。僕は振り返る。「久しぶり」と今度は僕から言った。彼女は軽く頷き、「ひさしぶり」と返してきた。
あの日、彼女の言葉に頷いた後、彼女は満足そうに僕の顔を見て、「またね」という言葉と共に去っていった。今思えば、あれは彼女なりの励ましだったのかもしれない。
「何か、色々あったみたいだね」
「ああ……、ニュース見たの?」
「少しだけ」
きっと殺せんせーやE組のことを言っているのだとすぐにわかった。僕の周りで起こった主な色々と言えば、そのあたりのことだ。
「舞台から降りたの?」
彼女の瞳の中には僕がいる。鏡のように、映している。
言葉を選ぶための時間を少しだけかけて、僕は口を開いた。
「……違うよ。次の舞台に立ったんだよ」
彼女は少しだけ呼吸を止めた。そして僕をじっと見て、「そっか」と言った。
「次の駅へ行く列車のように、終わりゆく物語のように、散っていく花のように、永遠は存在しない」
「…………。」
「なぎさ君も、永遠に中学三年生なわけじゃないんだね」
「そうだね、人間だから」
そこから僕らは少し黙った。何か特別話したいことがあるわけでもない。伝えたいことも特にない。いざとなれば僕らの間にはメールだってある。
結局一分も立たないくらいに、彼女の方が「じゃあ、またね」と口を開いた。
「うん、また」
そうやって僕に背を向けて三歩歩き去っていったところで、彼女は「あ」と一度止まり、また僕の方へと振り返ってきた。
「そういえば、入学が決まったの」
「あ、うん、メールで知ったよ」
日本で一番難しい舞台の学校への入学が決まったと、合否が出た当日に彼女からメールが来た。だからよく知っている。
「おめでとう」
「うん、だから、また見にきてね。わたしの立つ舞台、演じる役を」
そう言って彼女は僕に手を振って去った。僕も彼女の動きに合わせるように手を振り、そして彼女が角を曲がって完全に視界からいなくなったことを確認して、彼女が進んだ方とは逆方向へと歩き出した。



家に帰ると母さんと父さんがいた。僕の唇は少しだけ震えていて、それでも口を開いた。
「ただいま」
その声は思っていたよりも部屋の中に響いて、二人に届いた。「おかえり」と二人揃って、返事が返ってくる。きっとこれが、これからの僕の当たり前になっていくのだろう。それが嬉しくて、でも緊張する。ああでもきっと、舞台に立つ彼女も、いつだってこんな気持ちなのかもしれない。
「そういえば母さん」と僕は今日のことを少しだけ母さんに話した。
「今日、××ちゃんに会ったよ」
「あら、久しぶりね。元気そうだった?」
「うん」
「また××ちゃんの舞台、見に行きたいわね」
「……そうだね」
僕はひっそりと目を閉じる。そうすると瞳の奥の方で白い閃光が、確かに弾けるのだった。

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