花と病
「あの時あの場所でくたばっておけばよかった」

女の口癖はいつもそれだった。鬼太郎はそれを聞くたびに何も言うことはできなくなる。ただ代わりに彼女の短くなった腕や脚を摩っている。女から「やめて」と言われるまで、そうする。
鬼太郎と女の付き合いは、女の腕と脚が短くなる前からあった。人間である彼女と幽霊族である鬼太郎がどのように出会い関係を深めていったかは話せば長くなるため割愛する。
女が鬼太郎のことをどう思っていたのかを鬼太郎は知らないが、鬼太郎は女のことがそれなりに好きだった。その感情と関係にどんな名前をつけることが正しいのか鬼太郎は今でもわからないが、女がずっと死にたかったことを鬼太郎はずっと知らなかった。だからきっと、女にとってはその程度のことだったのだろう、と鬼太郎はひっそりと思っている。
女の希死念慮に初めて触れた日、つまりそれは女の腕と脚が短くなった日のことだった。
その日、鬼太郎は駅のホームで女を見かけた。髪の毛と背丈と服装を見ただけで彼女だと気がついた鬼太郎は、後ろから声をかけようとした。こんにちはと挨拶をして次は何を話そうと考えている間に、列車がやってくる音がした。強い風が吹く。鬼太郎の長い前髪が揺れる。彼女は大丈夫だろうか、と目線を向けると、彼女は先程より前の方に進んでいた。スカートと髪が靡いている。危ないですよ、と声をかけようと鬼太郎は近づいた。『黄色い線の内側までお下がりください。』そんな無機質でテンプレート的な音声アナウンスが耳に入る。
女は、黄色の点字ブロックを越えて、線路へと飛び降りていた。
え、と鬼太郎の頭は上手く動かなかった。彼女に向けて伸ばした手は、彼女には届かない。列車が迫る。特急列車らしくこの駅には止まらないみたいだ。ホームに入線したにも関わらず変わらないスピードがそれを証明している。女はその列車にぶつかった。ぶつかって、電車は止まった。女は見えなかった。ただ、人間である彼女が動いている電車にぶつかればどうなるか、人ならざる者である鬼太郎にも理解できる。だから彼はすぐさま彼女の元へと走った。ホームから降りて、線路に転がる彼女に近づいた。なぜこんなことをしたのかという疑問よりも、生きているのか、生きていてくれと、それだけを祈っていた。
「──────あ、」
声にならない声が鬼太郎の口から漏れた。線路に転がっている彼女は血に塗れている。それはまるで血の海に浮かんでいるようだった。目を閉じている彼女は存外安らかな顔をしていた。腕と脚は、切り落とされているというのに。腕は二の腕あたりで、脚は太腿の真ん中あたりで、切り落とされているというのに。鬼太郎の頭を優しく撫でてくれる手も、鬼太郎の隣に並び立ってくれた足も、もうないというのに。このままだと、貴女は死んでしまうというのに。
──だから鬼太郎は女に口付けをした。
幽霊族の血液や唾液なんていう体液を人間に摂取させれば人ならざる者へと変化するということを、彼は自身の父から聞かされたことがある。彼女を救いたい、いきていてほしい、と鬼太郎はそれだけを思っていた。きっとそれは自分のエゴであるということも気がついていたけれど無視をした。無視をして自身の唾液を女に飲み込ませた。長い舌で彼女の口をこじ開ける。祈るように女の手を握った。女の瞼は閉じたままだったが、こくり、と喉が動いたから、鬼太郎は安心し女から離れた。
そして騒ぎになる前に女を抱き上げ、鬼太郎はその場から去った。いつのまにか血は止まっており、けれども腕と脚だけは元通りにはならなかった。



あの日から女は鬼太郎の家にいる。人として生きていくことのできなくなった彼女は、もう人間の世界に戻ることはできない。引き伸ばされた寿命と治りの早くなった身体では、きっと彼女は鬼太郎と同じとまではいかないが、百年よりも長い時間を生き続けることとなるだろう。鬼太郎はそれに対して後悔と罪悪感と同時に、仄暗い独占欲を抱えている。女には一生言うつもりはない。その代わり、彼女が不自由なく生きていけるように最善を尽くすつもりであった。
目覚めた時、女は泣きも怒りもしなかった。ただ一言、「生かしたの?」という言葉を鬼太郎に浴びせた。鬼太郎は静かに頷き、女は「そう」と言った。彼女の表情と声色から読み取れたのは諦念だけで、その時にようやく鬼太郎は彼女が本当は死にたかったのだということに気がついた。だから女が時折呟く「あの時あの場所で、」という言葉に、鬼太郎はいつだって何も返せないのだ。
けれどある日、そうやっていつものように呟かれた女の独り言に対して、鬼太郎はぽつりと「怒っていますか」と聞いたことがあった。
女の表情は怒っていなかった。声色は怒っていなかった。しかし内心では何を思っているのかわからない。鬼太郎は彼女ではないのだから当たり前だった。
女はきょとんと首を傾げた後、優しく笑った。その瞳は鬼太郎を捉えていた。
「別に、怒ってないよ。君はいつだって正しくあろうとしてるだけだもんね。間違ってないよ、誇っていればいい」
声色も、瞳も、笑顔も、何もかもが初めて彼女と出会った時から変わっていなくて、それが鬼太郎は怖くもあるし安心もする。
「でも死んでおばけになった後は、鬼太郎くんのところには来てあげない」
「……じゃあ何処へ行くんですか」
「どこにしよう。遠い星の、ずっと昔の、遙か未来の、どこかかな」
「それって結局どこなんですか」
「知らない。でもきっと、鬼太郎くんは会いに来れないような場所」
──ああ、これは女なりの復讐なのだと、鬼太郎はすぐに理解した。
彼女が自由になった時、きっと彼女は鬼太郎の元を離れていくだろう。今鬼太郎の元から彼女が逃げ出さないのは鬼太郎のことを愛しているからではない。ただ術がないだけなのだ。人ならざる者になった彼女に居場所はなく、手足のない彼女は何処へだって進めない。ずっとわかっていたはずのことを、彼は改めて思い出した。別に鬼太郎は、女の救世主ではない。彼女を救うのは、自分ではない。
鬼太郎は思わず、彼女の頭を撫でた。かつての彼女が自分によくしてくれたように、きっと彼女はもうしてくれないそれを、優しく、ゆっくりと。
彼女は目を瞑って軽く笑っている。鬼太郎の手を拒むことなく受け入れている。そんな彼女が何を考え何を思っているのか、鬼太郎はいつだってわからない。

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