アレグロ風味の子守唄
誰が作ったのかもわからない掘っ建て小屋には、入り口らしい入り口がなかった。だから一番最初に目についた壁を、ゲゲ郎は蹴り破った。穴は綺麗に空いた。その壁に空いた穴からゲゲ郎は小屋の中へと入った。する必要も意味もないとゲゲ郎は思っていたから、挨拶などはしなかった。その代わりと言ってはなんだが、「姉さん、おるか」という言葉をゲゲ郎は発した。これだってそれほど意味はない。自分の姉がここにいることを、ゲゲ郎は知っている。その声が聞こえたのか、ゲゲ郎の視界の端でのそりと動く物体があった。
「──ここにおったのか、姉さん」
ゲゲ郎の目線の先には、流れる銀髪を床に垂らしてその場に蹲っている、ひとりの女がいた。ゲゲ郎と同じ色を持つ髪の毛は、月の光によってところどころ煌めいている。これまたゲゲ郎が現在来ている物と同じ色をした着物ははだけ、真っ白な乳房や腹が見え隠れしていたが、ゲゲ郎は今更目を逸らすこともしなかった。「帰るぞ」とゲゲ郎の伸ばした手に、女はゆっくりと首を傾げた。銀髪もつられて揺れる。長い前髪からはどんな宝石にも勝るような瞳が、ただゲゲ郎を見つめていた。
「姉さん」
「…………おんぶ」
「わしはおんぶではないが」
女はそれでも首を傾げて、ゲゲ郎を見上げていた。これ以上何を言えばいいのか悩み迷っているのだろうとゲゲ郎にはわかる。姉は発する言葉自体は少ないが、彼女なりに頭の中で考えている。その考えていることをどうやって他者に伝えるのか、ごく普通の人間でもその辺にいる幽霊族でもいとも簡単にできることを、姉は上手くできないでいた。そもそも白痴の気がある彼女が考えていることも、それほど広くも深くも大きくもないだろう。彼女の脳みその回路は、壊滅的で破滅的なまでにぐちゃぐちゃであるし真っ白である。ゲゲ郎は姉のことを誰よりも──それこそ本人である姉よりも的確に分析できていた。
「おんぶが、いい」
結局、姉の口から飛び出たのはその言葉だった。瞳は変わらず、ゲゲ郎を捉えている。その瞳が何も考えていないことをゲゲ郎は知っているが、それでも意味を見出したくなってしまう。
ゲゲ郎は姉の目の前で背を向けしゃがみ込んだ。そろりと女は何の疑いもなく乗る。姉はいつだって軽い。羽や紙に喩えても足りないくらいに軽い。この女が本当に生きているのか、ゲゲ郎はいつだって本気で信じられていない。



「運命も因果も、ないよ」
珍しい、とゲゲ郎はまずそう思った。姉さんが二言以上の言葉を繋げて発するとは。
自分と姉の住む小さな家へと戻り、姉を布団の上へと降ろすと、姉はぼんやりと宙を見ながら、突如としてそう言った。それがゲゲ郎に向けられたものであるということは、今この家に二人きりだからこそわかる。
姉は基本的に意味のなすことを喋らない。いつからそうだったのかゲゲ郎は全く覚えていないのだが、遠い彼方の昔にはそれなりのことを色々と喋っていたような気がするから、生まれてこの方ずっと、というわけではなかったのだろう。
「なんじゃ、急に」
そう言いながらゲゲ郎は何処かの天狗から貰った酒を、端の少し欠けたお猪口へと注いだ。口をつける前に発された「いるか?」という姉に対する配慮や気遣いは本人には一つだって届かず、その代わりに「別に今日だって、あんなことしなくてよかったのに」という言葉が返ってきた。
ゲゲ郎は動きを止めた。思わずお猪口を畳の上へと置き、姉の方へと目線を向けた。姉はゆるゆると起き上がり、月の光を背景にゲゲ郎を見つめていた。薄ら笑いを浮かべて、ただゲゲ郎だけを目に映している。
「あんなことって、」
「あんなことは、あんなことだよ。わたしを気にかけること、わたしを探すこと、わたしを見つけること、わたしと共にいること。そのあたりのこと、ぜんぶ」
「何を言っているんじゃ。わしと姉さんは数少ない幽霊族の生き残り。手を取り合って、肩を寄り添って、共に生きていかねば──」

「────でもそれは、貴方の意見でしょう」

彼女の声が、決して広くはない部屋に響く。別に大きくもない、芯を持ったものでもない、いつも通りの姉の声だった。それは彼女の存在のようにかるくて、意味がなくて、孤独によく似たものだった。少なくとも、ゲゲ郎にはそう思えた。
「貴方の願望で、貴方の感想で、貴方の思想で、貴方の感情でしょう。貴方が勝手に祈っている運命で、因果でしょう」
姉の言葉は続いた。ゲゲ郎のことを見つめる瞳は、姉の発言が嘘ではないことを言葉そのよりも雄弁に物語っている。それがわかってしまうから、嫌だった。
ゲゲ郎は呆然とした。頭の中は真っ白になって、何を言いたいのか言うべきなのかすらもわからなくなっていた。
「わたしの中にあるのは、わたしが消えるべきことだけ」
姉はゲゲ郎の事情も感情もお構いなしに言葉を続ける。ゲゲ郎が呆然とし、言葉すら見当たらないことなんて、気が付いていないのだろう。
外の風の音が聞こえる。いつのまにか、月は雲に隠れ、姉を照らしてはいなかった。姉の顔が陰る。それでもなお、彼女は薄ら笑いを浮かべている。
「それだけが、わたしとあなたのあいだに横たわっているの」
女はそう言い、固まるゲゲ郎まで近づいた。そして同じ色をした彼の髪を耳に掛けた。そしてその頭を、自身の胸へと優しく抱き寄せる。ゲゲ郎は抵抗せずにそれを受け入れた。女の白い肌は、やはり雪のように、そしてゲゲ郎と同じように冷たかった。




────どうせ姉がこのことを忘れることを、ゲゲ郎は知っている。姉は昨日の自分が何を言ったかを忘れて、また何処かを徘徊して、何処かで蹲り、迎えに来たゲゲ郎におんぶをねだるだろう。
自分の頭を抱えたまま眠りについた姉の背へと手を回す。彼女は抵抗をしなかった。もうそれだけでいい、それ以上を望んだって仕方がないのだと、ゲゲ郎は自身に言い聞かせるようにそう思い、目を閉じた。

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