ただ息を吸う
どん!と大きな音が隣の部屋からしたから、俺はすぐに立ち上がって、部屋から出た。何が起きたかは何となく予想できていて、でもだからといってそれを無視するのは良い選択ではないということもわかっている。ひんやりとしている廊下は、人の気配がしない。目的地はここではない。俺は足を進めて、そして、目的地である隣の部屋、つまりは彼女の部屋の扉を開ける。
部屋の中を覗き込んで、まず一言。
「大丈夫?」
俺からこの言葉を言われることを、きっと彼女は嫌がるだろう。けれど、伝えることに意味がないわけではない、と俺は思い、言葉を紡ぐ。予想通り(というかいつも通り)、「…………なにひとつ、だいじょうぶじゃない」と彼女にしては低い声が返ってくる。生きてる、とそのことにとりあえず安心した。
薄い桃色のパジャマを着て、床でうつ伏せに倒れている。どうやら先程の大きな音は、彼女がベッドから落ちた音だと判明する。
「起き上がれる?」
「…………うん」
彼女はのろのろと上半身を上げて、やがてゆっくりと床に座った。俺も、彼女に目線を合わせるように座る。
「寝た?」
「あんまり」
「食べた?」
「なにも」
「薬は?」
「飲みたくない」
「外は?」
「出たくない」
櫛でとかされていないぼさぼさの髪の毛と髪の毛の間から、鈍く光る瞳が見える。月のように静かで、ただそこにいるだけの灯りだった。
「……とりあえず、ミルクティーでも淹れようか?」
「要らない」
彼女は短いけれど拒絶するように言葉を吐いた。その意図があるのかないのかは、俺は彼女ではないため知らない。
「……治くんは、さ」
彼女は俺を見ている。俺も彼女から目を逸らさない。彼女がこれから何を言うのか、皆目見当もつかなかった。何年も一緒にいて隣にいるのに、彼女のことを完全に理解したことは、まだない。
「なにを考えて、書いたの」
「……なにを?」
「なんでもいい。これまで書いてきた作品、なんでも」
俺は今まで書いてきた作品のタイトルを全て頭の中で思い浮かべた。あの作品はとある賞を取った、あの作品が数年前に映画化した、あの作品はドラマ化が決まっている、と作品に付随されている思い出も同時に思い出す。
「……俺の苦しみとか、を吐き出すつもりで書いてた。でもそういうのを書いて、他の誰かが息をしやすくなればいいな、ってそういう気持ちもあったよ」
「…………ふうん」
「……お前は?」
彼女だって、作品を作っている。俺は小説で、彼女は漫画という違いはあれど、俺も彼女も創作者だった。退廃的な世界で難しい言葉を使用して孤独に生きている少女たちを描いた作品だったり、グロテスクな運命に踊らされてもそれでも真っ直ぐと生きている少女たちの話だったり、彼女の作品は独特で共感者は決して多くはないけれど、俺は好きだった。
「なんだろう……、わたしが好きだから、としか言えないな……。わたしが、その世界を一番あいしてるから」
そんな台詞を聞いて、つい、羨ましい、と思ってしまった。彼女が生み出した世界を、彼女本人が愛しているということが、羨ましかった。俺だって、彼女に描かれて、彼女に愛されたいと思ってしまった。
「……治くん、この間書いた話、読んだよ」
──途端に意識が現実へと戻る。急に話が変わったから反応に遅れたけれど、俺は「えっ、あ、うん。ありがとう」と返事をした。
「……あれ、どんな気持ちで書いたの?」
「えっ?」
「なにを考えて、なにを思って、なにを願って、なにを祈って、書いたの?」
俺は思い出す。この間、数週間前に出版された俺の作品。俺にしては珍しいテイストだ、と担当の編集者が何度も言っていたことをよく覚えている。
それは、確かに昔の俺なら書かなかったような話だ。書けなかった話でもある。
「仄暗くて、甘い話だったね」
ピンクと灰色を混ぜたみたいな、と彼女の発した独特な比喩は、そこまで的外れではない気がする。希死念慮に塗れた男が、孤独を抱いた少女と出逢い、傷を舐め合って愛を交わす、そんな話だった。俺は、それを誰かに頼まれたわけでもなく、俺の意思で書き上げた。その男のモデルは、その少女のモデルは、
「……お前のことを考えてた。お前を想って、お前を願って、お前を祈って、書いた」
そうやって言葉を吐いて、ふと、安吾に以前言われたことを思い出した。彼女と出逢って、少し経ってからくらいの頃。へらへらと道化のような笑みを彼女に向けていた頃。何度目かの自殺未遂で世間を騒がせていた頃。
気分が落ち込んで悪い方向へと行く俺を引きずって一緒に飲みに行ってくれた安吾は、酒が回ってふわふわとしている俺に対して「お前は、好きな女を書くために生きるやつだよな」とぽつりといった。
「え、何、急に」
「いや、あのお嬢さんと一緒にいる所を見て、ふとな」
「お嬢さんって……、あの子のこと? あの子は……、そういうのじゃないよ」
「そういうのって、どういうのだよ」
「……とにかく、違うの!」
そうやって当時の会話は別のところへと進んでいったが、ああ、と今更ながら納得した。
安吾の言っていたことは、間違っていなかった。俺の希死念慮はだいぶ薄くなって、彼女のことを書けるまでになっていた。俺はやっと、そのことに気がついたのだった。
「──わたし、あんなにきれいでも、他者のため的でも、天使みたいな女じゃないよ」
と彼女が言う。あの少女のことを指しているのだとわかる。「ごめん」と俺が言うと、彼女は虚をつかれたみたいな顔をして、少し固まった。そしてすぐに、俺の襟首を掴んで、顔を近づけた。俺はそれを甘んじて受け入れる。
「生きる理由を、書く理由を、わたしにしないで」
彼女は俺を睨むように見ていた。月のような瞳には、怒りと拒絶と絶望の炎が宿っていた。断罪されたような気分で、でもそれがあながち間違っていないことに気がついていた俺は、なんとか言葉を返した。
「……………………うん、わかってる」
「わかってない! わかってないから、今こうなってる!」
そうやって彼女は叫んで、そしてうずくまった。「ううっ……」と小さな呻き声がして、そのまま動かなくなった。死んだ、わけではないことくらいわかっている。ただ俺は、彼女の背中を撫でた。ゆっくりと撫でると、心臓の音がこちらへと伝わってくる。とく、とく、とく、とこれが速いのか遅いのかは、よくわからなかった。

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