運命の裏側に行こう
太宰治に救われた。という感情はそこまで珍しいものではないだろう。多分太宰治を読んだことのある人間の七割はそんな思想に囚われるのではないか、と私は薄らと思っている。
かくいう私も、学生時代に太宰治に救われたひとりだった。それは勝手に救われた気になった、あるいは救われた夢を見た、と表現するのが正しいのかもしれないけれど、あくまで私の視点から見たら、私は太宰治の文学に救われたというのが、私の中にある事実だった。
コミュニケーションが苦手で空気の読めなかった自分が、学校に馴染めなくて保健室と図書室だけを行き来するだけの生活を送っていたことは、遥か昔で遠い過去だ。そして、そんな頃に、私は太宰治の書いた本に出会った。
最初に読んだのは、確か『人間失格』だった。何の前情報もなく、なにかの気まぐれで手にとったその物語の上で重苦しく生きている大庭葉蔵は間違い無く私だと、私は、私と学校司書だけがいる三時間目の図書室で、そんな夢を見た。
その後も同じように、『斜陽』を読んでかず子のように生きなくては、と。『女生徒』を読んで「私」のように生きていきたい、と。そんな夢のような想像をした。
夢、だ。そんな、太宰治に救われた夢を見た人間なんてこの世界には数え切れないほど存在している。太宰治は、そんな人間を救うために、作品を紡いだわけではない。私たちが、勝手に夢を見ているだけなのだ。
太宰治は私を書いたと。彼こそが救世主で理解者だと。太宰治は、そんなつもり、一つもないのに。
他者に夢を押し付けることは、なんてグロテスクなのだろう。けれど太宰治は既に死んでいる。だから、皆そんなグロテスクなことを続けていられる。
私は、太宰治の書いた作品が好きだ。そして、それを生み出した太宰治がもう死んでいることにひどく安心している。





ふと、『太宰治情死考』を思い出した。
坂口安吾曰く、太宰治は、本当に女に惚れたのならば死なずに生きるであろう、太宰は、その女を書くために生きるはずだ、と。ざっくりとそんなことが書かれていたことを、今思い出した。
これか。とパズルが全て埋まるような快感と喪失感と、吐き気がする。目の前で行われていることのすべてが、夢幻の類であってほしいとさえ願った。眩暈がする、頭痛もする。
私は、太宰治を殺さなくてはならないとさえ思った。
今世は私が産み出したからこそ、私が責任を持って、殺すべきだと思った。思ってしまった。傲慢で、独善的で、自己満足で、かみさまみたいで、母親的。
目の前にいる彼を見て、私の頭はそう動いた。
「あのさ、」
と、彼が口を開く。そこで私の意識は現実へと戻った。髪とインクの香りがする司書室へと、私は戻ってきた。
目の前では、狂いそうな私を、きらきらと眩い星みたいな瞳が射抜いている。直視できないほど、それは眩しい。だから私は、狂いきれないでいる。狂うことをゆるされないでいる。
血潮のように赤い髪と、星のような金色の瞳が、今の私には毒でしかなかった。
太宰先生は、本日の助手だった。かつての私が太宰治に救われたからといって、彼を一人だけ変な扱いにすることはしなかった。平等に潜書していただき、助手になってもらう。彼の本の感想を伝えたことはあれど、救われたなんてことは言ったことがなかった。
だから、なのだろうか。私が太宰治を救世主という枠組みにあらかじめ当てはめていれば、こんなことにならなかったのではないだろうか。と考えてしまう。意味なんてないのに、考えることがやめられなかった。
「ずっと長い間、書いてたんだ。納得するまで何度も書き直したけど、ようやく書けた。司書のことを書いた。おまえをずっと書きたかったんだ。俺から見たお前を、俺だけの言葉で表現したかった。エゴでごめん。でも、だからこそ、一番にお前に読んでほしい」
太宰先生の声は聞こえているはずなのに、内容は脳に入ってこなかった。理解を拒んでいるのかもしれない。私の少し荒くなった呼吸がやけに大きな音で聞こえる気がしてならない。今の自分の感情を言葉にするために、ぐるぐると私の頭は動いていた。
目の前の原稿用紙を、私は受け取れなかった。



先生が言ったじゃないですかご自身のことを彗星の如くってじゃあ星でいてくださいよ墜落するまで輝き続けてくださいよ空の上で燃え続けてください星なんでしょう星以上でも以下でも以外にもならないで舞台から降りないでスポットライトを避けないで道化から素に戻らないで貴方は“太宰治”でしょう太宰治が“太宰治”を演じなくて一体誰が”太宰治“で居続けるのねえ私を救った太宰治は私に夢を見せてくれた太宰治は一体今何処にいるの彗星は輝くものでしょう彗星は煌めくものでしょう彗星は眩くものでしょう貴方がそう言ったでしょう先生先生先生太宰先生太宰先生太宰治先生私を見ないで私を呼ばないで私を求めないで私を書かないで私を観客でいさせて貴方という舞台を貴方という映画を貴方という芸術を貴方という作品を全く関わりのない第三者の目線から永遠に見させて私に触れるな私に近づくな私に手を伸ばすな私に意識をとられるな貴方は星でい続けろ私なんて眼中にはないみたいな顔をして生きていろ。








────知ってる。本当は知ってる。今この図書館にいる太宰先生は、私を救った「太宰治」本人ではない。太宰治は死んでいる。太宰治は私の救世主ではない。私が勝手に夢を見て、抱いて、押しつけただけだ。
だけれど、私のこころは幻想を追いかけている。理性はあれど、それがうまく働いて幻想を見るのをやめられるわけではない。太宰治を救世主だと、太宰治に夢を抱くのだと、その感情をとめることをしない。
なんて、グロテスク。目の前で喋り、動き、息をする生きものに、理想を押し付けることは、傲慢と表現する他ない。死ねば、いい。死んでしまえばいい。消えて無くなってしまえばいいのに。私も、先生も。



太宰先生は、私を見ている。私は太宰先生を、いつまでも見ることができない。

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