何処かの夏
────夏の匂いがする、と直感的にわかる。
昔から嗅覚が敏感で、天気特有の匂いや季節の変わり目の匂いなんてものがなんとなく理解できた。
夏は主張が強い。此方を向け、此方を見ろ、という圧倒的なまでの自信のようなものさえ感じる。室内にいると、その香りがあまり感じられなかったりするけれど、窓を開けたり、外から帰ってきた人とすれ違うと、その匂いを感じることが多かった。
次に感じたのは、誰かの気配。わたしは、気配のする方──つまりは後ろへと振り返る。
そこには、本日の助手のラヴクラフト先生が立っていた。背後には木製の扉があって、彼はわたしの身長より少し低めの大きな向日葵を持っている。
彼はいつもみたいに、底の感情が読めない顔で、わたしを見ていた。
「ど、どうしたんですか、これ」
「貰う、ました」
「だ、誰から」
「庭、いました、文豪」
室生先生や武者小路先生だろうあたりか、といつも庭にいる面子を思い出す。徳冨先生、トルストイ先生、あとは……、とわたしの脳では、ブルーバックを背景に真顔で真正面を見て、そして下の部分に名前が書かれている、所謂卒業アルバムのような状態で、様々な文豪の姿が思い浮かんでいく。結局誰かは検討できなかったので、とりあえず現実に目を向けることにする。
「えっと……、どうしましょうか。その向日葵」
英語ではサンフラワーというそうだ。太陽の花。名前通り、ラヴクラフト先生が戻ってきてから、太陽と土の混ざった夏の匂いが司書室を漂っている。向日葵そのものの花の香りをわたしはよく知らないので、向日葵の匂いだなぁとは思えなかった。
「花瓶、あったかな……」
そんなおしゃれなもの、わたしの私物にはない。そもそも花を花瓶に飾るなんて経験も皆無だ。実家でもそんなことした覚えがない。水を入れてそこに花を入れればいいのかな……、と花の生け方について書かれている本でも借りようかと考えつつ、花瓶を持っていそうな先生方をこれまた卒業アルバムのように思い浮かべる。川端先生、直木先生、松岡先生、あとは……。
そんなふうにわたしがクルクルと様々なことに思考を巡らせていると、ラヴクラフト先生は少しだけ首を傾げてから、「壺、あります」とぽつりと言った。
「え?」
「壺、私、あります」
「…………ああ!」
そうやってようやくわたしは思い出した。司書室に置きっぱなしだった、ラヴクラフト先生がいつも持っている壺の存在を。
その中に何が入っているのかは誰も知らないけれど、確かに、それは壺だった。
「え、でも、入れて良いんですか……?」
「可能、問題ない、です」
「そういうものなんですね……」
壺の仕組みをわたしはよく知らない。持ち主であるラヴクラフト先生もあまりしっかりわかっているわけではないらしく、でも向日葵は入れても大丈夫だというのだから、そこは、まあ、信じてみよう。一応、毎日持っているのだから、ある程度の勝手は知っているだろうし。
ラヴクラフト先生は早速向日葵を入れた壺を抱えた。服装や髪型が変わったわけではないのに、その姿はなんだか、陽気で愉快に見えてしまう。本人は顔色ひとつ変えていなかったので、多分気にしていないのだろう。それを見てわたしは、黒と黄色って警戒色だなあ、とぼんやりと少しだけ思った。






──それが、8月の初旬ごろの話である。
その後、壺に入れられていた花は三日後には少しだけ萎れていた。「水、入れましたか?」とわたしが尋ねると、ラヴクラフト先生は不思議そうな顔をして黙ったため、それからわたしは毎日、壺に水を入れていた。ジョウロとかそういうものは別に使わず、食堂の水道からコップに水を汲んで、それを一杯分。
そんなことを欠かさず毎日やっていたら、気がつけば、中庭の木々は赤や黄色へと色づき、植えられている花や野菜もすっかり様変わりしていた。季節が、変わったのである。
だというのに、黄色い太陽の花はまだ誇らしげに咲き誇っている。もう11月である。ちょっと……、いや、かなり不思議なことが起きているのでは?とわたしも流石に気づき始めていた。
乱歩先生には「造花ですか?」と聞かれたし、ポー先生には「何をした」と聞かれたし、島崎先生や国木田先生は取材を行っていた。「造花じゃないです」と答え、「何もしてないです」と答え、「わたしにもわかりません」と言っておいた。
壺の力なのだろうか、その辺りのことは全くわからないけれど、ラヴクラフト先生本人は、特に何も気にしていなさそうだった。「邪魔じゃないですか?」と一度聞いてみたが、「問題ない、不満なし、です」とのことだったので、まあいいか、と特に何もせずにしている。いつまで咲いているのかはわからないけれど、あって困るようなものでもない。
そしてわたしは、ラヴクラフト先生とすれ違うたびに夏の香りがわたしの鼻をくすぐるので、壺の中へと水を一杯入れてしまうのだった。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -