矢車菊、君、羊の夢を見る
「その卑屈さは、もはや傲慢だよね」
──思わず、マグカップを落としそうになった。
本日の助手である島崎先生は平然とした顔でそう私に告げた。彼は紫色の宝石(私はその辺りのことに詳しくないから、具体的な名称は一切出てこない)みたいな瞳で、私を射抜いている。
私以外の誰かに言った言葉だと信じたかったが、あいにく司書室には私と島崎先生しかいない。元々静かな場所が好きな私でも、今の静寂は落ち着かない。
遠くから、誰かが誰かを呼ぶ声がする。他の文豪の声が遠くの方からして、今は勤務中だと、それでようやく現実を思い出した。
島崎先生の発する言葉には裏表がないため、背筋が伸びるような感覚によく陥る。それは、良い意味でも悪い意味でもある。彼の言葉に悪意はないけれど、お世辞もないのだ。私の背筋は一気に冷えて、頬と耳が熱くなる。もしかしたら、首まで赤くなっているかもしれない。
とりあえず、マグカップは無事である。
「…………え、っと」
私はマグカップを机に置いた。先ほど入れた紅茶は冷めようが、いまはそんなことどうでも良かった。カーテンを閉める。誰かにこの光景を見られたくなかったから。昼下がりの日差しが、司書室には降り注がれなくなった。
私の出した小さな声に、島崎先生は何も言わなかった。相変わらず、彼の瞳は私を射抜いており、どうやら、私の次の言葉を待っているようだった。
「……私のこと、ですよね」
「うん」
そこでようやく、彼は言葉を発した。私の尋ねたことも後から振り返ると今更すぎる当たり前のことだったのだけれど、その時はその言葉を指すのが他の誰かなのではないかという小さな希望に、まだ縋っていたのだろう。結局、その期待ははずれ、私に向けられた言葉だと判明したのだけれど。
「君みたいに自虐的な人は勿論いるよ。例えば秋声だって、そういうところがある。でも彼にはプライドがある。譲れない信念や意志がある。この図書館にいる他の文豪だってそう。自虐的で自罰的で自滅的な文豪はそれなりの数いるけれど、全員、プライドはある。でも司書さんには、そういうのすらないんだ。そもそもないのか、僕が感じられないのか、それとも誰にも見せないようにしているのか、それは知らないけど、司書さんを司書さんたらしめているのは、その自虐的な部分だけだよ。少なくとも、僕にはそう見える」
島崎先生は一気にそう言って、マグカップの中のお茶を飲んだ。文豪用のマグカップを、私は転生文豪が増える度に買っていた。司書室には少し大きめの食器棚を置いており、そこには色とりどりのマグカップが並んでいる。
私は不意にそちらに目を向けた。マグカップはひとつだって同じ色はなかった。区別しやすいように、様々な色の物を私が勝手に選んで買ったものだ。
私は次に、手元のマグカップ、つまりは私物のマグカップを見た。ヒビの入っていないそれに、何故だか苛立ちを覚えてしまった。
「…………。」
私が黙り込んでいるのを、島崎先生はじっ……と見ている。それがさらに現在の状況の気まずさを加速させている気がしてならない。
図星、だったのかもしれない。だから私の口は今開かない。何も言えない。指一本だって動きそうになかった。ただ頭だけを働かせていたけれど、私の中から、何も言葉が見つからない。
今までずっと信じようとすらしなくて、信じなくても常に私の中に存在し続けていた核のようなものを、その瞬間にはじめて、私は自覚したのだった。
「…………昔から、誰かとか何者とかになれなかったんです。いつだって透明で、その他大勢で、誰かの一人で、埋もれて消えてしまうような、私という生き物はそういう人間でした。でも確かに、それって、傲慢ですね。そうやって胡座をかいて、線を引いて壁を作って、見上げながら見下していることことを、私は、もっと前から知っておくべきだったのかもしれません」
「……だから、そういうところが傲慢なんだよ」
「あはは……、たしかに、そうですね。初めて気がつきました」
島崎先生は、ふっ、と軽く柔らかく笑った。それだけで、硬く強張っていた室内の空気が和らいだ気がした。そういえば、先ほどからの島崎先生の言葉の中に棘はなかったな、とようやくその時に、愚かで馬鹿な私は気がついたのだった。

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