僕産アリス
「おはよう、わたしの親愛なるお母様」
彼女が僕を指す時に使われる”お母様“という表現が本当に正しいかはいまだによくわからない。母親の定義を考える時に、性別という概念を外して考えることは難しく、そういう点で、僕は彼女の母親ではないと思ってしまう。
けれど彼女を生み出したということにだけ目を向けるのならば、彼女の“お母様”は僕しかいない。僕しかふさわしくない。
僕のベッドの右隣で、僕の顔を覗き込む二つ結びの少女は、いつもの通りに笑っている。
「おはよう、僕のアリス」
僕の一日は、彼女への挨拶から始まる。





「お母様、今日は何でもない日のお茶会でしょう?イチゴタルトの赤さと艶やかさを直近で見ることのできる最高の日よね?」
「お茶会をそうやって楽しむのは、君くらいだろうね」
「あら、じゃあお母様は、お茶会で何を楽しんでいらっしゃるの?ケーキを食べる事?紅茶を飲む事?クロッケーを嗜む事?同じ寮の方々とお喋りする事?お庭の薔薇を眺める事?」
「…………全部かな」
「全部ね。欲張りなお母様」
彼女は不思議な少女だ。
僕にはない思想と視点で、物事を常に見ている。とろけるような蜂蜜によく似た声で僕を呼び、いつも会話を投げかける。その会話たちのことが僕は嫌いではなくむしろ好きな部類に入れている。けれど、彼女と僕が会話できるタイミングは、こんな風に朝か夜の自室でしかできない。他者がいる場所では、僕らは会話ができない。そういう確約が僕らの間にはある。
僕が朝の自習を終え、身支度をして、今日の授業で必要な教科書の確認をしている間、彼女は笑いながら雑談をする。それは例えば、血と苺の色は同じだけれど表現として使う場合は全く違うらしいという芸術的な話や、空に浮かぶ星はスポットライトで地球という舞台に立つ人間たちを照らしているという詩人的な話や、或いは魔法の万能性は時に人の柔軟的な思考を奪ってしまうといった心理学的な話をする。後は、まあ、先程みたいに、僕の生活について聞いてきたり。
「お母様。映画はあまり見ないでしょう?」
「そうだね、あまり」
「現在、二年前に上映された映画が一週間限定で再上映されているんですって」
「それは、どんな内容なんだい?」
「トマトが潰れますの」
「…………他には?」
「野菜が燃えますの。少女が戦いますの。星が煌めきますの。運命が別れますの。列車が動きますの。幕が上がりますの。青空が広がりますの。キリンが走りますの。舞台が、続きますの」
「……全くわからないね」
「わたしも、広告しか見てないのです」
想像で、僕はその映画を観る。
野菜が燃える意味を、少女が戦う理由を、星が煌めく根拠を、運命が別れる訳を、列車が動く事情を、幕が上がる原因を、青空が広がる理屈を、キリンが走る事情を、舞台が続く真相を。
「お母様」
脳に、彼女の声が響く。
「もう時間ですよ」
時計の針は、八時より少し前を指しており、僕の想像の映画は、エンドロールを迎えていた。彼女は僕を見て、微笑んでいる。
「じゃあ、行って来るね。僕のアリス」
「うん、いってらっしゃい。わたしのお母様」
白いパニエの入った水色のワンピースの裾を持ち、彼女は丁寧にお辞儀をした。僕はその姿を目に入れて、自室の扉を閉めた。





僕だけの彼女は、僕以外には見えない。僕以外の人間には、彼女は見えないし聞こえない。その理由は、そういうものだからとしか言いようがない。そういうルールの中で、彼女は存在している。
けれど、たまに、そんな暗黙の了解を破る様に、僕の目の前に彼女が現れることがある。そして、僕にしか見えない彼女が、僕以外の人のいる場所で見えた時、僕にできることは何もない。
僕が授業に受けている間、もしくは部活を行なっている間、あるいは寮長としての業務をこなしている間、彼女が動き、笑い、話しかけてきても、僕は何もできない。
今日は、次の授業に向かうため、廊下を歩いている時だった。僕の横で、長いツインテールが揺らめくのを、僕は無視していた。
「ねえ、お母様」
僕は無視をして、廊下を歩く。
「お母様、先ほど、空から月が見えましたの」
僕は無視をして、廊下を歩く。
「まだお昼なのに、見えましたの。白くて、まるくて、美しかったですよ」
僕は無視をして、廊下を歩く。
「もしいつか、お母様が月へ旅行する機会がありましたら、是非わたしも一緒に連れて行ってくださいね」
僕は無視をして、廊下を歩く。
「そういえば、お母様。わたしもいつか、乗馬を経験してみたいです」
僕は無視をして、廊下を歩く。
「馬に興味があるのはもちろんですけれど、お母様の見ている景色にも興味があるのです。お母様が普段、どんな景色を見ているのか、わたしはそれが知りたいのです」
僕は無視をして、廊下を歩く。
「あら、お母様。もう着くのね」
僕は教室の扉を開ける。
「お母様。じゃあ、またね」
彼女は消えた。僕はそれを確認することなく、席についた。





「お母様。星が綺麗よ」
窓の外で輝き煌めく星を指差し、彼女ははしゃいでいる。ツインテールとワンピースもそんな彼女の感情につられるように揺れている。それを見て僕は、彼女が発した言葉自体には何も返さず、「昼間は、すまなかったね」と言った。
「何が?」
宝石のような瞳が、僕を射抜く。僕の心臓はどきり、と大きく脈打った。それはまだ知らぬ恋のようだとさえ錯覚できた。
「……いや、わからないのならいいよ」
「ええ、そうよ、お母様。わたしはお母様のあれやこれやを何一つ気にしていませんわ。だからお母様も、わたしのあれやこれやを何一つ気にしなくてもいいのですよ」
彼女はやわらかく微笑み、僕を見た。彼女にそれを言われてしまうと、僕にはもう何も言えない。僕は何も言わずに、ただ彼女に向けて微笑みを返した。









いつか僕らの元に来るのは別れだ。それが明日か、十年後か、はたまたもっと先のことなのかはわからないけれど、必ず別れは僕のもとにやってくる。僕は拒もうともせずに、それを受け入れるだろう。だから僕らは、共にいる。その日が来るまで、共に生きて、共に息をする。
それを僕が心の底から渇望し、羨望しているのかはわからない。けれど、彼女はいつでも現れる。僕のことなんてお構いなしに、僕を見て、僕と話し、僕に笑いかける。
それが全てだ。それだけが、今の僕の傍にあるのだ。

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