箱庭の王子様へ
それは、雪が降るある日だった。
教室の窓からは灰色の雲が世界を覆っていて、そこからちらちらと小さな雪が落ちていた。
「さむいね」
と声を出したのは隣の席に座る彼女だった。赤いランドセルを机に置いて、白いマフラーを首に巻いている。教室内には、俺と彼女だけだった。
「帰らないの?」
「帰らない。帰りたくないから」
「俺も」と言うと彼女は薄い氷のような笑みを浮かべた。それが、俺は好きだった。触れたら溶けてしまいそうな、そんな儚くて仄暗ささえ感じる表情を、ずっと見ていたかった。
教室内の暖房は消されていて、今は多少暖かいけれどすぐに冷えていくだろう。そうしたら、俺も彼女も、どこへ行けばいいのだろうか。家へ帰りたくない俺と彼女は、どこへ行くのが正しいのだろうか。
「どこか、行こう」
俺の口から飛び出した言葉に、俺自身もかなり驚いていた。彼女はぱちくりと大きな瞳を動かしている。そして次に少し笑って、「どこまで?」と聞いてきた。
「どこか遠くまで。世界の果て、とか」
俺のその言葉に、彼女は「いいよ。一緒に行こう」と手を掴んだ。





そんなふと突然に思いついたような逃避行は、大人が想像すればわかるように、簡単に終わった。
彼女の手を繋ぎ、二人で電車に乗り、駅を乗り継いで、乗り継いで、乗り継いで、そして行き着いたとある遠くの駅で、駅員から声をかけられて、それで終わった。その時点で時間は夜の十時くらいになっていただろうし、流石に自分の母親も彼女の母親も心配して、学校や警察やらに連絡していたようだった。俺たちを見つけた駅員はすぐに警察に連絡して、俺たちはパトカーに乗せられて、家まで戻った。
俺たちはその間何も話さなかった。何を言えばいいのかわからなかった。けれど手だけは握って、彼女がここにいることをずっと確かめていた。
やがてパトカーが止まり、彼女の家の前へと止まった。彼女の母親が、そこには立っていた。彼女はぼんやりとそれを窓越しから眺めている。彼女の母親が彼女の名前を呼ぶ。パトカーを運転していた警察官が先に降り、彼女の母親と話しているようだった。
彼女の手を俺は握ったままだった。離したくない。離れたくない。離れてほしくない。俺のそんな感情に彼女は気がついて眉を下げて、困ったように笑った。怒鳴ることなく、泣くことなく、ただ笑った。
「王子様ごっこに、なっちゃったね」
小さな声で、彼女はそう言った。
俺はただそれを目に焼き付けて、それで何もできずに彼女を見るだけしかできなかった。
やがて彼女は警察官がドアを開けた車から降りて、母親の元へと歩みを進めた。そして彼女の母親に手を引かれ、背を向けて遠ざかっていく。雪はいつの間にか止んでいたようで、彼女の姿がくっきりを窓越しからでもわかった。俺は手を伸ばして彼女の名を呼んだけれど、彼女は振り向かずに、家の中へ入っていった。





「──待って!」
俺の出した声に、俺の横を通り過ぎようとした彼女は振り向いた。ぱちり、と大きな瞳が俺を映す。それが変わっていないことにひどく安堵している自分がいることに気がついた。
人混みの中でも、彼女のことは一目でわかった。わかってしまった。行き交う人々は俺と彼女に興味がないように通り過ぎてゆく。
何年振りだろうか。あの日遠ざかっていった彼女はすぐに引っ越していき、それからの消息はわからずじまいだった。
今日の今みたいに、街中で偶然会うことだって、今までなかった。
運命のようだ、と御伽噺のような言葉が思い浮かぶ。
「あ、えっと……」
俺は何を彼女に言うべきか、少しわからなくなってしまい黙った。そもそも眼鏡や帽子で変装しているとはいえ、このままでは誰かが俺に気がついてしまうだろう。どうしようか、と頭をぐるぐる悩ませていると、彼女が俺の手をとった。
「ひろくん、だよね?速水ヒロくん」
少しだけ自信のないような声だった。俺だという確証が彼女にはなかったのだろう。でも俺は彼女から俺の名前がこぼれ落ちたことに少しだけ泣きそうになった。「うん」と俺の声に、彼女は笑い、「じゃあ一緒に、遠くまで行こっか」と手を引いた。
空は灰色が覆っていて、重苦しい雰囲気を漂わせている。雪はまだ、降りそうにない。





俺たちが今いるのは遠い場所ではなくて、俺の家だった。手をとって歩き出した彼女は、「ひろくんの家に行こう」と言って、俺に道案内を頼んだ。
一時間もしないうちに辿り着いた俺の家で、彼女はちょこんと座っている。「元気そうで、よかった」と笑っている。首に巻いていた白いマフラーは畳んで置かれている。俺は彼女にお茶を出すことなく、正面に座った。
「ひろくんをテレビで見ない日はないよ。すごいよね。プリズムショーをしてるひろくん、王子様とか王様みたいで」
彼女は笑っている。俺が大好きだった薄氷みたいな表情で、そこにいる。それだけは変わっていない。
それ以外は、俺も多分彼女も、色々と変わってしまった。それに対して俺は、どう思えばいいのかよくわからない。
「ごめん」
俺の口から唐突に零れ落ちたその言葉に、彼女は「なにが?」と当たり前のことを尋ねた。その声は震えてもいないし、弱々しくもない。ただ、俺の言葉を促すためだけに発された言葉だった。
「あの時、王子様ごっこになっちゃって」
あの時。雪の降る夜の日。小さな逃避行。箱庭からの脱出。一時的な死。永遠の一瞬。遠くの果てまであとどれくらいだっただろうか。王子様ごっことお姫様未満。俺と君。忘れた日はなかった。けれど、それでもどうすればいいのかずっとわからなかった。今の俺にだってわかっていない。
「…………。」
彼女は黙って俺を見ている。俺はそこから目を逸らさずに、彼女に対峙している。あの時も、本当はこうすればよかったのかもしれない。隣で手を繋いで歩くんじゃなくて、彼女のことを真正面から見たほうがよかったのかもしれない。
「あの時も今も、一緒に遠くまで行けなくて、ごめん」
俺の小さな声に、彼女は微笑んだ。それはやっぱりあの頃から何一つ変わっていなくて、俺はそれから目を逸らすように彼女に抱きついた。彼女はそれを拒むことなく、俺を受け入れてくれる。あたたかいその温もりは、まるで母親のようで、恋人のようだった。
これが永遠であればいいのに、と俺は目を瞑り、彼女の体温を感じていた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -