小宇宙的彼女
「先生、ご飯食べませんか」
ひとりの少女が俺の書斎の扉を開ける。
この家にいると波の音がよく聞こえる。そして彼女の声はその音にとてもよく似ている。
しかしそれを他の奴に言ってみたところ、誰からも賛同は得られなかった。この家にたまに来る太宰や安吾も口を揃えて「わからない」と言ったし、その声の持ち主である彼女も「はじめて言われました」と俺を不思議そうに見ていた。
だから俺は、いつか波の音に紛れて、彼女の声が聞こえなくなるのではないかと、一人で不安になる。
「先生、返事」
「……ああ、すまない。食べようか」
俺は万年筆を置いて、立ち上がった。
彼女は俺の弟子だ。彼女以外の弟子はいない。小説を書き始めて、そして幾つか本を出してから数年が経ったある日、海の見える小さな家へ、突然彼女はやってきた。「先生の書くお話が、世界で一番好きなんです」と彼女は俺の瞳をまっすぐ見て告げた。
そんな小さなことから俺と彼女は始まった。
「今日の昼は何を食べるんだ?」
「カレー。イカと貝とエビを入れたから、美味しいよ」
たぶん、と付け足された言葉に苦笑する。彼女の作品のようだと思う。たぶん、もしかしたら、きっと、おそらく。そんな言葉を彼女は多用するし、彼女の書く作品は現実と空想の境目を曖昧にしたようなものが多い。彼女の脳内はふわふわと雲に浮かんでいるような状態に似ている。それについては彼女と関わりを持ってから、俺は知った。それは他人にはあまり理解されないことでもあったけれど、俺はそういう彼女の思考が好きだった。
「カレーは小宇宙に似ているよね」
「……そうだろうか」
話題があちこちに飛ぶのも、彼女の癖だった。空の青さについて憂いていると思えば、花の命の重さと長さについて思考していたり、唐突で空想的だ。俺は全てを理解できないけれど、聞くことはできる。そして俺の手を引いて先を歩く彼女は「宇宙より近い宇宙のことを人はカレーと呼んでいる」という理論を口にしている。
白い窓掛け(カーテン)と壁が広がる居間(リビング)からは海と空がよく見える。俺は晴れた空と海が好きで、彼女は荒れた空と海が好きだ。何故かと問うと「誰が何をしても止められないから」とのことだった。今日の天気は、雲一つない晴天だ。
「先生、カレー、煮えてる」
「そうだな。宇宙的か?」
「宇宙的」
銀色の鍋にはぐつぐつとカレーが煮込まれており、白い具材たちが見え隠れしている。
「先生は、シーフードカレー、お好きじゃない?」
「いや、好きだ」
鍋の中のカレーと白がうまく結びつかなくて、鍋の中を見ても何も反応できなかったが、彼女が海鮮(シーフード)と言ったおかげで、ようやく反応ができた。
棚の上の皿と洋盃(コップ)は俺が出して、引き出しから銀匙(スプーン)を出すのは彼女がやった。カレーと米を皿に盛り付けるのは俺が、洋盃(コップ)に水を注ぐのは彼女がやった。
焦茶色の長机に二人分の食器が並ぶ。いつもの光景だ。食事は交代で行う。俺はカレーが好きで、彼女はこだわりがない。だから俺たちの食卓に並ぶのはカレーが多い。
「いただきます」
「いただきます」
二人で向かい合うように座り、手を合わせた。彼女は一口食べ終わるまでに、俺は三口食べ終わる。だから彼女の方が遅いのかと言われるとそれは違い、彼女は少食なため元々の量が少ない。その為、結局俺と彼女は同時に食べ終わることが殆どになる。
「確かに、宇宙に似ているのかもしれないな」
「カレー?」
「ああ」
「ふうん。じゃあ宇宙はカレー?」
「カレーが宇宙ならば、宇宙はカレーではないのか?」
「ちがう。宇宙に似ているのがカレーだから、宇宙がカレーに似ているわけじゃないよ。元に宇宙があってそれに付随する形でカレーが存在しているの」
彼女はそう言い切った。成る程、と俺は感心する。
彼女は思考が曖昧的だ。放つ言葉も掴みにくい。けれど俺はそんな彼女が好きだ。
彼女の近くには孤独が纏わりついているように思える。思考や言動が理解されなくて傷ついてきたことがあったのだろうと俺は予想している。けれど彼女の過去のことを俺は全て把握できないし、彼女も話そうとはしない。それでいいのか悩んだこともあったが、きっとそれでいいのだろう。
「先生、隕石が降り注ぎそうなくらいに、空が綺麗」
彼女は大きな窓を見つめていた。彼女の瞳は空を映しており、俺はその瞳を見て、「ああ。綺麗だな」と言った。

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