煙草の匂いが消えないところまで
俺がこの家に帰ってきて、電気がついていた試しがない。
同居人である彼女は、基本的に俺よりもはやく帰ってくる、もしくは家から出ない。そして、どんなに外が暗くなろうとも部屋の明かりをつけない。
その理由は彼女に言わせてみると、わざわざつけるのが面倒くさいとか部屋の明かりが眩しすぎて目が痛いとか、色々とあるらしい。
今日も電気はついておらず、けれど玄関には彼女の靴があり、俺は「ただいま」と声を出した。
「……おかえりー」
間延びした小さな声が、リビングから聞こえる。眠そうで気怠そうで、いつも通りの彼女の声だった。
「……電気、つけるぞ」
「待って、たばこ消すから」
尚のことつけるべきだろうと俺は思い、それを待つことなくリビングの明かりをつけた。彼女、××は長い髪をゆらりと垂らし揺らしながら、黒猫の形をした灰皿にまだ程よい長さが残っている煙草を押し付けていた。
「ごめんね、あんまり時計見てなかったから、換気してないや」
「別に気にしねえよ」
「わたしが気にするの」
あはは、ととろんとした目で笑う彼女は、よく見れば下着姿だった。黒いレースと白い肌が目に毒だ、と俺は素直に純粋に思う。
「風邪、引くぞ」
しかし今口から出した言葉も本音だった。ブランケットでも持ってくるか、と寝室へ足を運ぼうとする俺を彼女は「いいの、別に」と止めた。そこから続くであろう「どうでも」という言葉を、俺は知っている。
「単位、足りるのかよ」
「んー……、多分」
至極どうでもよさそうに彼女は宙を見ている。基本的に、面倒くさがりなのだろう。思えば、出会った頃から、元々、そういうやつだった。ノートは全ての科目で同じ一冊のものを使っていたし、大学構内のあらゆるベンチで眠っていた。忘れた、と言いながら三日間何も食べていないこともあった。その度に、俺が世話を焼いていた。
「メシは?」
「お昼?……うーん、食べてない気がする」
「何がいい?」
「なんでもいいよ」
彼女の場合、「何でもいい」は本当に何でもいいらしい。食にあまり興味がないのだろう。
別に俺も料理が特別上手いわけではない。けれど、彼女は作らないのだから俺が作るしかない。冷蔵庫を開けるために、彼女に背を向ける。そんな俺に野次を飛ばすように彼女は口を開いた。
「偉いねえ、黒田くんは」
「別に、やりたいからやってるだけだ」
「内心、わたしのこと、見下してるのにねえ」
俺は思わず振り返り、彼女を見た。彼女は目を細めて、ソファに寝転がっていた。
そこには、俺を責め立てる様子も、恨んでいる様子もなかった。それに、俺は安心すると同時に恐怖を抱く。
そんな彼女から目を逸らすように、キッチンに目をやる。隅の方には、俺にはあまり聞き覚えのない薬の名前が書かれた袋が、輪ゴムで括られ束になって置かれている。
「……………………ああ」
「肯定するの?」
「実際、そうだからな」
こいつは、めちゃくちゃだ。どうしようもなくて、破綻している。生活とか、人間性とか、様々が、“普通”ではない。
俺はよく知らないが、障害者手帳も持っているらしい。名前をつけるなら、精神疾患とか発達障害とか、そういう類のことが理由で貰ったという。
見下している、という表現だけでは不十分だ。俺より下に見ている、だから貶したり馬鹿にしてもいいとか、それだと違う。俺が助けなければ、と思ってしまう、そういう意味で、俺は彼女を見下している。
「えへへ、エリートだもんね」
「…………。」
「ごめん、違うよ、嫌味じゃない。黒田くんは立派だよ、正しいよ、ちゃんとしてるよ。それって、エリートってことじゃん?でも、わたしはエリートじゃない。それはわたしが、立派じゃなくて、正しくなくて、ちゃんとしてないから。だから、別に見下してもいいんじゃない?」
「……雑だな」
「雑でわたしがかまわないからね」
そう言った××は、先程消した煙草にもう一度火をつけて、深く吸った。そしてすぐに、けほ、けほと咳をする。咳をするくらいならやめればいいのに、と俺は人知れず思う。思うだけだ。そんなことはもう言わない。「はやく、死にたいの」とゾッとするほど冷たい声と表情で言った日のことを、俺はよく覚えているから、俺はもう何も彼女に言えない。「……馬鹿だろ」と吐き捨てるように自分が言ったことも覚えている。
全部、ぜんぶ覚えている。こいつに関連することで覚えていないことなんて、一つもない。
「それにさ、わたしは死ぬべきで死にたいけど、黒田くんはちがうじゃん」
××は手足をバタバタと忙しなく動かした。ごちゃごちゃの思考を整えるように、彼女は忙しなく動かしている。これも彼女の癖と呼べるようなもので、あまり褒められたものではないことを、俺も彼女も十分に理解していた。
「黒田くんの近くにいるから、わかるよ。黒田くんのことが大好きで、黒田くんのことを大切に思っている人が、黒田くんにはいっぱいいるじゃん。たとえばさ……、ほら、泉田くんとか、葦木場くん、だっけ?あの子たちとの関係の方を、大事にすべきだと思うけどなあ」
まるで自分はそうじゃないみたいな言い方をしている。彼女にとって俺はそれほど好きで大事ではない、と、彼女のことをそれほど好きで大事に思ってくれる人がいない、と両方の意味で解釈できるような、そんな言い方だった。
「だから、やっぱり、黒田くんはわたしを見下し続けてていいんだよ」
強がりでも諦めでもない、ただ笑顔と表現するしか相応しくない顔で、彼女は笑っていた。
それを見た俺は、何故だか無性に腹立たしくなり、搾り出すように一言だけ言った。
「……やっぱり、お前、馬鹿だろ」
俺のその呟きに、彼女は「あはは」と笑い、そしてけほ、と小さな咳をした。

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