空の下の劇場まで行こう
「何の映画を見たの?」
夏休みが明けてからクラスメイトに初めてかけられた言葉はそれだった。
それは休み時間のことで、イヤホンをして机に伏せていたわたしの目の前には、青い髪をした夏みたいな男の子がそこにはいた。
クラスメイトだとはわかる。けれど名前が出てこない。そして、今までまともに話した記憶もない。
会話が唐突すぎて、わたしは思わず「は?」と口に出していた。わたしは人と話すことが本当の本当に苦手で大嫌いなので、予想していない会話が始まるとパニックになる。だから思わず、語気の強い感じに言葉を発していた。やらかした、とわたしは罪悪感と後悔で死にたくなりながらイヤホンを制服のポケットにしまった。けれど、目の前のクラスメイトの男の子はわたしの色々に関しては特に気にすることなく、「廊下の宿題、見たから」と説明をしてくれた。それだけを説明されて、ああ、とわたしの頭は理解する。
夏休みの宿題の一つとして出されたものに、夏休みの一番の思い出をA4の紙に書いて(もしくは描いて)提出して教室の前の壁に飾る、というものがあった。部活やら夏祭りやら海やらそんな他人の思い出が並ぶ中、わたしはそこに、八月の半ばに行った映画を見たことを書いた。
二時間と少しの間、暗い劇場で、わたしは人生を見ていた。数億光年にも勝るほど遠い場所で、それぞれの人生を歩む少女たちを見た。電車で、砂漠で、学校で、舞台の上で、青空の下で。ときに怒り、ときに泣き、ときに捨て、ときに歩み、ときに笑う彼女たちを見た。
眩しくて、愚かしくて、とても美しかった。
わたしは劇場の椅子に座って、それを見た。
それだけのことだ。たったそれだけのことが、わたしの夏休みの中で、一番たいせつな思い出だった。
「えっ、と」
「うん」
ばくばくばくばくと心臓がうるさく鳴る。目の前の男の子の顔が見れなくて、思わず下を見る。わたしが、ぎゅっとスカートを握っているのが目に入った。
口の中が乾燥して、声を出しづらくなる。緊張と、恐怖と、不安と、そういう嫌なものがぐるぐると、ごちゃごちゃと、混ざって回っている。
わたしは紙に、映画のタイトルを書いていない。書いたのは感想だけだし、描いたのは最後のシーンのイラストだけだ。
映画のタイトルは、怖くて書けなかった。その映画は、とある深夜アニメの続編となる劇場版で、そういうものはちょっとだけ偏見の目に晒されやすい。だから、それを目にした誰かに、馬鹿にされることを恐れて、わたしはあえてタイトルも登場人物の名前も書かなかった。
それに、わたしには友達もいないから、わざわざ他者の間で話題になることなんてないだろうと思っていた。
だから何の問題もない。わたしの見た映画は、わたしの中だけで咀嚼すればいい。
そうやって、思っていたのに。
名前の知らない男の子は、今、わたしの目の前にいる。
「あ、の」
「うん」
「えっ……、と」
「うん」
わたしは、映画のタイトルひとつ、口に出せない。
馬鹿にされたら、とか、そういう嫌な想像をしてしまうから、言葉が口から出てこない。
どうしようどうしようどうしよう、と頭がどんどん白くなる。わたしの口から、間隔の短い呼吸が始まる。犬みたいに、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、と、呼吸が荒くなる。
目の前の男の子は、それに気がついているのか、「……聞いちゃ、ダメだった?」と言葉を発した。
ちがう、と咄嗟に思い、わたしは思い切り首を横に振った。「よかった」と目の前の彼は小さく言って、また言葉を紡いだ。
「壁に貼ってあった宿題に書かれてた絵が、すごく素敵だったから、何の映画を見たのか、聞きたかったんだ。どこまでも広がる青空が、すごく綺麗だったから」
わたしが描いたのは、映画のラストシーンでもある、青空の下で少女たちが笑っている場面だ。劇場で見て、わたしはあそこのシーンがすごく好きになり、人生の終わりはああでありたい、とさえ思った。
「…………ちょ、ちょっと待って」
わたしは、ノートの端の方を破り、そこにタイトルを書いた。ちょっとだけ長くて、けれど大好きなタイトル。わたしは彼に、それを差し出した。
「タイトル?」
わたしは縦に頷く。
「間に入ってる『☆』は読むの?」
わたしは首を横に振る。
「この映画、おもしろい?」
わたしは縦に頷く。
「この映画、好き?」
わたしは縦に頷く。
「この映画、青空が出てくる?」
わたしは縦に頷く。
「近くの映画館でやってる?」
わたしは縦に頷く。
「……一緒に、見に行ってくれる?」
わたしは縦に頷……………………え?
思わず、顔を上げて、彼の瞳を見た。「やっと目が合った」と彼は、目を細めて笑っていた。



男の子の名前は、真波山岳というらしい。青と緑だなあ、と思う。
自転車競技部という部活に所属しており、今日は部活がないから、とわたしを映画に誘ったらしい。
な、なんで?と思うけれど、口には出さない。出せない。隣を歩く真波くんとはほぼ初対面みたいなものなので、そんなこと聞けない。
学校の最寄り駅から三つ向こうの駅の近くに、映画館のあるショッピングモールがある。駅からショッピングモールまでは、徒歩で10分くらいで、生ぬるい風にあたりながら、わたしと真波くんはアスファルトの上を歩いた。
電車の中でも特に会話は盛り上がらず、道中もそれは変わらなかった。
わたしは無言のまま、真波くんはたまに独り言を呟き、わたしたちはショッピングモールの屋上を除いて最上階にある映画館へと辿り着いた。
公開からそれなりが経ち、公開時間が平日の夕方くらいだからか、わたしと真波くん以外は、その映画を見ないようだった。
わたしと真波くんは隣同士の席を買い、それから映画が始まるまでの1時間をフードコートで過ごした。わたしは某有名チェーン店のチョコレートドーナツを食べ、真波くんは某有名チェーン店のレモンシャーベットを食べた。真波くんの方が早く食べ終わって、真波くんにずっと顔を見られていたのが気まずくて仕方なかった。
べつに、ひとりで来ればよかったのに、とわたしは真波くんに対して思っていた。タイトルは教えたし、わざわざわたしと観る意味はないと思う。
わたしは、映画館に一人で入ったこと以外ない。いつも、一人で観て、一人で浴びて、一人で経験する。
だからなのかはわからないけれど、映画館で感じることは、孤独だとわたしは思っている。スクリーンの向こうで行われていることにわたしは干渉できず、映画館の暗闇を周りに纏うわたしは、そこで数億光年にも勝る断絶を感じる。
内容は面白い。観ることは楽しいし、素敵な経験ができてると思う。
けれど、わたしにとっての映画館とは、一種の孤独を感じる場所でもあるのだ。
「そろそろ、行こう」
真波くんは時計を見て、わたしも時計を見た。上演時間の15分前を時計の針は指しており、「うん」とわたしは小さな声で言った。



映画は、やっぱり最高だった。
少女たちは煌めいていたし、青空は綺麗だったし、わたしの人生もああでありたいと思った。
映画館の暗闇で浴びる他者の人生は、やっぱり最高に眩しくて、綺麗で、美しくて、孤独で、寂しかった。
わたしはエンドロールとエンディングテーマ以外の箇所でも数回ほど泣いていて、真波くんのことを気にする余裕的なものは全くなかった。だから映画が終わってすぐに真波くんが「……ちょっとわかりにくかったな」と隣で呟いて、わたしと彼が一緒に来ていたことを思い出した。
真波くんの意見に、まあそうだろうな、とわたしは思う。この作品は某アニメ作品の続編として作られた劇場版だから、劇場版だけじゃわかりにくい部分があるだろう。
でもそれを言うことが彼にとって何かしら余計な影響になるかも、と思い、わたしは彼に曖昧な笑みを見せることしかできなかった。
映画館の清掃の人が入ってきて、わたしたちはシアターを出た。そして、どこか他のお店に入ることなく、わたしたちは帰路へ着いた。
わたしは行きと同じでアスファルトと見て歩いていた。けれど、行きはわたしの少し前を歩いていた真波くんが、帰りは隣にいることに気がついた。そんな小さなことに意味とか理由とか因果性とかがあるかわたしにはわからないけれど、彼なりの理由が何かあるのかも、と何となく思った。
「あの映画を見たからかな。空が見たくなるね」
真波くんは、空を見ていた。わたしもそれにつられるように、目線を上に向けた。
空いっぱいに広がっているのは、青だった。
青で、真っ青で、青空で、当たり前のように、夏の空が広がっていて、それは、あの映画のエンディングにそっくりだった。
あ、とそれに気がついたわたしは、呼吸を忘れそうになった。忘れたことなんてない当たり前のことを、忘れそうになった。
「内容の全部を理解できたわけじゃないけど、最後のシーンはすごく良かったよね。青空の下で、主人公たちが自分の道を歩み始めるシーン。君の描いたイラスト通りだった」
真波くんはそう言って、少し言葉を選ぶように黙った。少し宙を見て、
「あんな人生が、いいよね」
と言った。
それはわたしがあの映画を見てずっと思っていたことで、あのA4の紙にもひっそりと書いたことだった。
「……別に、気をつかってる訳じゃないよ。オレも、あれを見たら、あんな人生がいいなって、思ったよ」
彼の言葉を聞いて、わたしはすごく泣きたくなった。悲しいわけでも嫌なわけでもなくて、ただ、この感情を言葉で表現できなくて、だから代わりに泣きたいのだと、それだけが理解できていた。
この時はじめて、わたしは真波くんと映画を見れて良かった、と思えた。
真波くんと一緒に他人の人生を浴びて、ちょっとずつ違う感想と同じ感情を抱いて、そして青空の下に立てて、本当によかったと、わたしは心の底から思った。
「ねえ」
真波くんのやさしい声が聞こえる。青くて、炭酸みたいな声がする。真波くんはわたしの目の前に立っており、彼がわたしを見て、わたしも彼を見た。彼の海みたいな瞳を、見た。泣きたい、とわたしはやっぱり思った。
「いつか、俺が自転車に乗ってるところ、見てよ」
「…………うん」
「試合でも、練習中でも、なんでもいいよ。××さんが好きな時にでいいから、見にきてほしい」
名前、知ってるんだ、と冷静なわたしが頭の隅っこで言った。わたしは、真波くんの瞳をちゃんと見て、「うん」と頷いた。真波くんは心底嬉しそうに笑った。それに思わず、まぶしい、と目を細めそうになるのを堪えて、わたしは真波くんを見た。
いま、わたしの瞳には、真波くんと青空だけが映り込んでいる。それは眩しくて、綺麗で、美しくて、手が届きそうなほど近くにある。
「ねえ。××ちゃんって、呼んでもいい?」
「…………うん」
わたしの心臓は、彼の人生を浴びて、彼の人生に触れたいと、叫んでいた。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -