シュレーディンガーの猫



「おっはよ、カズミっ!」
とんっと背中を軽く叩きながらかけられた声に顔を上げると、ラークが呑気な笑顔を浮かべて、それに見合わず慌ただしく横をすり抜けていった。
「?」
それを追いかけるように、今度はビートルが小走りに通り過ぎていく。
便宜的に本部として利用している廃ビルの地下、その最奥に位置する諜報の基地、もとい情報管理室にでも向かうのであろう背中を呆然と見送る。
日が出ていても薄暗い室内に、すぐに二人の姿は消えた。
「おはよーカズミ……ふあ」
それとは正反対に、明らかに起き抜けだとわかる声に振り返ると、普段のしゃきっとした様子からは想像できない、どこかだらっとしたレンが、廃墟に似付かわしくないふかふかのソファーに腰を下ろしたところだった。
「はよ」
小さく答えると、そこのミネラルウォーター取って、なんて言われて。
なんでわざわざオレがと言おうと思ったけど、そのダルそうな様子に、仕方ないなと取ってやる。
そのまま、レンの隣にぼすりと腰を下ろすと、レンはオレに寄りかかってきた。
「なに」
「ダルい」
「見りゃわかる」
はあ、とオレがため息をつくと、レンもため息。
「理由くらい聞いてくれたっていいじゃんか」
「聞いて欲しいんだ」
「ていうか愚痴りたい」
「うぜー」
オレたちがこんな呑気に話してる後ろを、機嫌悪そうに電話で何かを話しながら、地下から戻ってきたのであろうビートルがやっぱり小走りに通り過ぎていった。
近々何か、重要な情報が入るのかもしれない。
入れ替わるように書類を抱えたフライが通り過ぎる。
「スラッシュが寝かしてくんなくてさー」
「おい待て待て」
そんな背後の様子を気にも留めず、眠たそうにオレに寄りかかっていたレンは、めんどくさそうに視線を上げる。
めんどいのはこっちだっつの。
てかそういう問題じゃなくって。
今の発言ってもしかして、もしかする…?
「スラッシュと、って…」
「あれ、言ってなかったっけ?俺スラッシュと」
「きえええい!聞きたくない!人の惚気も性事情も知りたくねえやい!」
「だから愚痴だってば」
「なんでも一緒だ!」
「ちぇ」
聞こえない聞きたくないとオレが耳を塞ぐと、レンは諦めたように小さく舌打ちをして目を閉じた。
「おいこら人の肩で寝んな」
「やだ寝る。寝てやる、話聞いてくれないカズミの肩で寝てやる。膝でもいいけど」
「断る!」
至ってマイペースなレンに呆れて頭を抱えるオレを気にすることなく、当のレンは本当にそのまま眠りに落ちてしまった。
しかも肩から滑り落ちてその頭はオレの太ももの上。
「まじふざけんなよちくしょう」
「朝から元気だね」
ため息混じりに悪態をつくオレの頭上から降ってきた声に、思いっきり顔をしかめて顔を上げる。
そこにいたのはコーヒー片手に呑気にウザったいほど爽やかな笑みを浮かべたスパロウで。
オレの不機嫌面を見て、わあおっかないとわざとらしく肩を竦めて見せると、奴は向かいのソファに腰を下ろした。
いちいち言動がむかつくなあと言おうと思って、言うだけ無駄かと口を噤んで目を逸らす。
「ところでカズミ。君は、俺が何を考えているのかわからないだとか、幼稚だとか馬鹿だとか思っているようだけど」
不意に切り出された言葉に、オレはまた顔をしかめる。
思ってるどころか、ついこの間ブルやビートルに愚痴っていた内容だ。
どうやらどこからか聞いていたらしいこの男は、白々しく笑みを浮かべてオレを見る。
「何も考えていない訳じゃない。まあ、遊んではいるけどね」
何も言い返さないオレに、スパロウは続ける。
「シュレーディンガーの猫っていう言葉があるのを、君は知っているかい?」
「は?」
唐突にすり替わった内容に、オレは何を言い出すんだこの腐れリーダーはと睨みつける。
「物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが提唱した、量子論に関する思考実験のことさ。難しいことはさておき、簡単に説明するよ」
そう、話を続けるスパロウはオレの話なんてこれっぽっちも聞く気は無いようだった。
そうとなれば口を挟むのも面倒だから、オレは頬杖をついて仕方なしにスパロウの話に耳を傾ける。
勝手にレンに膝枕なんてさせられてしまって動くことも出来ず暇だったのだ、暇潰しなんだと自分に言い聞かせながら。
「まず最初に、箱を用意する。次に、その中に一匹の猫を入れるんだ。箱には毒ガスが流れ込むように細工がされているのだけれど……」
「いや、なんだよそれ。ただの猫殺しの箱じゃねぇか」
何が実験だよと口を挟むと、すっと人差し指を差し出され、気が早いな、馬鹿は君のほうなんじゃないの? と笑われて、舌打ちをして視線を外した。
「まぁまぁ、話には続きがあるんだ。毒ガスが放出される確率が50%だとしたら?」
「えっ?」
「それから蓋を閉めて一時間放置する。もう君にも分かるね。観測するまでの間、中では猫が生きている状態と死んでいる状態が同時に存在していることになる」
君にも分かるね、と言われたのが馬鹿にされているようで気に食わなかったが、それより、一体何が言いたいのかがさっぱりで眉を顰めてスパロウを見やる。
「何が言いたいのか分からないって顔をしているね。つまり、俺達がこのゲームに勝つのか負けるのか……。箱を開けてみるその時まで、誰にも分からないってことさ。猫――コマドリはもう箱に放り込んだ。さて、毒ガスは出るのか出ないのか…」
わからないって言うのがなんだか癪で、どうにか理解してやろうと無い頭をフルに使って考える。
考え込むオレを楽しげにスパロウが見ているのが気に障ったが、それより、そのシュレーディンガーの猫、とやらと彼の言う"ゲーム"には矛盾点がある気がして。
その納得のいかない気持ちの悪い点を、まとめるためにぽつぽつと口にしてみる。
「このゲームにはその実験の"一時間"みたいな時間制限てないんだよな」
「まあね」
「そんで、その毒ガスが噴出されなかった――つまりコマドリが死ななかった場合。今度はアンタらに死ぬ可能性が出てくるんじゃあないのか?」
オレの問いに、ふむ、とスパロウは頷くと、喋ってる間に随分冷めたコーヒーをずずっと啜った。
「なるほどね」
「だから言わば、…そうだな、毒を吸わないように防護マスクだけしてあとは丸腰で、熊やなんかと同じ箱に実験者本人も入るような」
「それじゃあ毒ガスの50パーセントの確率を待たずして学者が死んでしまう可能性があるね」
「む」
オレの言ったことに付け足されたスパロウの言葉に、オレは唇を尖らせる。
突き崩すつもりが突き崩されて、少し、負けた気分だ。
「ただ確かに警察を相手にしてるんだからそれくらいのリスクはあるかもしれないね。箱から生きて出てきた猫に致命的な仕返しをされる、そんな感じかな」
「猫相手じゃ死なないだろ」
「殺されるつもりはないからね。もちろん捕まる気もないし」
眉を顰めるオレに、コーヒーを飲み干しながらスパロウは笑う。
「やっぱり君には少し、難しかったかな」
「おまえはホントに嫌みな奴だな」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
そう言って、空のカップをテーブルに置いたままスパロウは立ち上がると、ひらりと手を振ってオレに背を向ける。
「死んでくれ」
最後にちいさくオレが呟いた言葉には答えないまま、スパロウは暗闇の廊下に消えていった。
また、慌ただしくビートルがオレの後ろを通り過ぎる。
今度こそほんとに暇になったなあと思いながら、手の届くところに投げ置かれていた誰かの雑誌を見つけて、ぺらぺらとめくって眺めて時間を潰す。
「うーん、足が痺れてきた…」
レンが目を覚ましたのは、それからまた、1時間くらいしてからだった。


To be continued
100430


ほんとは5話を書いてたんですがシュレーディンガーの猫の件が無駄に長くなったので別の話になりました