(サヤ→)オミ→カゲ

サイドストーリー&続編〜17,8くらい
カゲ←オミ←サヤ





今でもたまに、夢に見る。
あいつに、初めて名前を呼ばれた日。
そして、あいつと毎日のように顔をつきあわせていた日常が崩れて消えた日。


『オミ!』
あいつに初めて名前を呼ばれたとき、それどころじゃなかった俺は、歪に笑うことしかできなかった。
いつもなら構ってほしくて、意識をこっちに向けてほしくて並べ立てる言葉は何一つ出てこなくて。
どんなにみじめだとしても、いっそこの場で泣き出せたらどんなに楽だろうかと、言葉より、きっとあいつを引きつけられるんじゃないかと、真っ白になった頭に、ふっと浮かんだ。
けれど、ずっとずっとツラいはずの俺よりも、泣き出しそうに顔を歪めたあいつを見たら、泣き出すことすらできなくて。
『お望み通り、消えてやるよ』
ほんとは、すごく苦しくて、誰かに手を差し伸べて欲しくて、あわよくばその手があいつのものならいいと思っていたのに、素直に縋れずに非道い言葉を置いて、そこから立ち去ることしか出来なかった。

そのあとは、勝手に足が動いていた、走って、走って、気付いたら人気のない路地裏にいた。
壁に背中をつけば、どっと疲れが込み上げてきて、そのままずるずると崩れ落ちる。
座り込んで、俯いたとき。
そこで、初めて涙が零れた。
ぽたり、ぽたりと地面に染みができる。
こんな情けない姿を、誰にも見られていないことに、少しだけ安堵した。
けれど、それ以上に誰もいないことが不安で仕方なくて。
膝を抱えてうずくまった。

ぽつり、ぽつり、ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつ……。
丸めた背中に、晒した首筋に、抱える腕に、数滴雫が落ちてきた。
そんなのも気にせずに、ただそこでうずくまってるうちに、粒は少しずつ増えていき、やがて土砂降りの雨となって、俺に降り注いだ。
まだ肌寒い季節だったこともあり、雨は無遠慮に体温を奪っていく。ああ、ヤバいなあとぼんやり頭の中では思ったけど、動く気は起きなかった。
どれくらいそうしていただろうか、突然、雨音が遠ざかった。
耳元でぱたぱたと煩かったのが、頭上で何かにぶつかってばちばちと違う音を立てていた。
誰かに、傘を差し出されたのだと、数瞬遅れて気が付いて、そろりと顔を上げる。
そこにいたのは、傘をこちらに差し出しているせいで、俺の代わりに雨に濡れている見慣れた少年だった。

「オ、ミ…」
息を切らせて、肩で呼吸しながら俺の名前を呼ぶ。
来てくれたのが、あいつかもしれないなんて期待して、けれど、似ても似つかないあいつより少し幼さを孕んだ男にしては高めの澄んだ声と、あいつとは全く違う黒髪に、苦しくなって、息を詰まらせる。
突き放したくせに、あいつに追いかけてきて欲しかったんだと理解してしまって、止まりかけたはずの涙が、再び溢れてくるのを感じた。
頬から顎へ伝って滴り落ちたのは雨だか涙だかはわからなかったけれど、冷え切った頬に、中途半端な温もりを残して地面へ吸い込まれていった。

「はあ」
呆然と見上げるだけの俺に、少年は小さく溜め息をつく。
「急にいなくならないでくださいよ、心配するでしょう」
そう、少し怒ったように言って、帰りましょう? と首を傾けて、ぼうっと見上げるだけの俺を覗き込む。
「どこ、に」
絞り出した声は、思ったより掠れていて、思い通りには出なかった。
彼だって、居場所を失ったのに、なんでそんなことが言えるんだと、半ば八つ当たりのように、文句の言葉すら出ない口の代わりに、ただ睨みつけた。
「言いたいことはわかりますけど、こんなところにいたって、どうにもなりませんよ」
そう苦笑しながら、差し伸べられた手を、俺は仕方なしにに握り返してのろのろと立ち上がる。

「まったく…、冷え切っちゃってるじゃないですか」
その手は握られたまま、文句を言いながらもふたりで傘に入れるようにと引き寄せられた。
家路を辿りながら、ただ俺が安心できるようにと柔らかく微笑んで手を引く彼を視界に収める度に、ちくちくと胸が痛んで仕方なかった。



追いかけてきてほしかった

(あの手が、お前の手だったらどんなによかったか)

帰宅後、追い討ちをかけるように折り重なってきた悲劇はまた別の話。



夢から覚めれば、あのときより幾分成長した黒髪の彼が、「魘されてましたよ、大丈夫ですか」なんて言いながら、流れてもいない涙を拭うように、俺の目尻を親指で優しくなぞるのだ。
俺はその手を彼じゃない、他の奴に見立てているとも知らずに。





Title by 慟哭カタルシス
100223
リメイク 100828