朧月夜
女は今日も月を見上げる。
真夜中、人気の無い僅かに小高くなった丘の上。
毎晩そこで黙って月を眺めるのが女の日課だった。
「よォ」
不意にその沈黙を破り、一人の男が現れた。
片目を包帯で覆い煙管をふかすこの男は、最近此処へ訪れるようになった者だ。
派手な着流しを纏った男をちらりと見やって女は再び空へと視線を戻す。
男は黙って近くの木に寄り掛かり、女に倣う様に月を見上げた。
何をするわけでも無しに、二人ともただ黙って月を眺める。
男女は互いに相手の存在をよしとしているらしく、さして気にした風も無い。
そうして暫く静けさに包まれた後、男は口を開いた。
「お前さん、名は?」
これまでに幾度か訊かれた問いに、女は男を見る。
この問いに関して男は決して強要しなかったので、女は今まで黙って流していた。
しかし、複数回訊ねてくるということは何か思うところでもあるのだろうか。
女は暫し考えて、ポツリと呟いた。
「…憂き身世に」
その呟きに男は僅かに眉を上げ、女の方に視線を移す。
女はそれに促されるように再び口を開いて続けた。
「やがて消えなば尋ねても 草の原をば問はじとや思ふ」
囁くように紡がれた言葉に男は黙り、女を見詰める。
女は元よりあまり返事を期待していなかったのもあり、諦めた様に小さく溜め息を溢そうとした。
が、
「ことわりや。聞こえ違へたる文字かな」
「!」
返された返事に驚いて、女はパッと顔を上げ男を見る。
「いづれぞと 露のやどりを分かむまに 小笹が原に風もこそ吹け」
男は低く落ち着いた声で詠い、小さく口端を上げて笑って見せた。
それを見た女は、小さな声で続きを促す。
「…わづらはしく思すことならずは、」
「何かつつまむ」
そして男はそれを正確に引き継ぎ、再び問う。
「もし、すかいたまふか」
そこまで言って、男は言葉を止めた。
女は、ただ黙って男を見詰める。
まさかここまで知っているとは思わなかった
それが女の素直な感想だった。
纏う雰囲気や身のこなしから、気品ある家の出だろうとは思っていた。
しかし、ここまで空で返せる者もあまり居るまい。
そうして黙った女を見て、男は一旦閉じていた口を開く。
「お前さん、中々風流な返し方するじゃねーか」
「…貴方こそ」
この男と出会ってからまともに会話をしたのは初めてではないだろうか
そんなことを考えていると、男が何かを取り出した。
何だろうかと目をやれば、男の手には自身の髪と同じく艶やかな黒紫色の扇。
まさか…
男はふわりとそれを開き、そっと女に差し出した。
女は驚きを隠せぬまま暫しそれを見詰め、ゆっくり受け取る。
そして女も自身の淡い藤色の扇を、そっと男に差し出した。
男はそれを受け取ると、満足そうに笑う。
女が呆けた様にそれを見詰めていると、男はゆっくり女へ手を伸ばした。
「生憎だが、そいつと違って俺ァお前を一人にゃしねー」
月を背にしてニィ、と笑った男は、成程彼の人とは程遠い。
しかし、
「…喜んで」
こちらの方が、断然好みだ。
女はふ、と微笑んで、差し出された手を取った。
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源氏物語第八巻「花宴」第二段より
光源氏と朧月夜の君のやり取り
「憂き身世に〜」
(名を知らないからといって、私が死んでしまっても「草の原」(墓)を訪ねて下さる程のお心持ちも無いのですか?)
「ことわりや〜」
(ごもっともだ。先程の言葉は申し損ねました)
「いづれぞと〜」
(どなたであろうかと家を探しているうちに、世間に噂が立ってだめになってしまうといけないと思いまして)
「わづらはしく〜」
(私との関係を迷惑にお思いでないのなら、何の遠慮が要りましょう)
「もし、〜」
(ひょっとして、お騙しになるのですか?)
※訳は少し意訳気味な節があります
最初の歌のみ朧月夜の君
やり取りの後、二人は扇を交換して一度別れます
高杉なら知っているんじゃないかと勝手に思ってみた結果でした
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