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 一通り昨日の課題をクリアしたところで、影山くんは椅子に背を預け一つ伸びをした。終わった、と脱力気味に一声上げたかと思えば、すぐさま机に下げていたバッグを手に立ち上がる。
 本当に切り替えが早いなあ、とその姿に感嘆する。彼は立ち上がると閉じたノートを私に差し出す。

「苗字、さん」

 名前、覚えられてた。そりゃそうか。昼休み名乗ったし。
 でもさん付けが、なんとなく言い辛そうな雰囲気だったので「さん付けしなくていいよ」と言うと、彼はこくりと頷いた。
 でも影山くんの口から私の苗字が紡がれるっていう事実が、どこか夢心地のような気分だった。同じ学校になって、同じクラスになって、今日の今日までまともな接点のなかった男の子から呼ばれるっていう、変な感覚。
 ノートを受け取る。ざらざらとした表紙の面をなぞりながら、自分のことのように「とにかく無事提出出来そうで、よかった」と言うと、影山くんは一瞬だけ動きを止めて私の顔をまじまじと見つめてきた。

「な、何ですか」
「いや、あの」
「ん?」
「助かった、んで」
「え? ああ、別にいいよ。ちょっとしたお節介だし」
「アリガトウゴザイマシタ」
「だからなんで片言なの」

 交わされてた視線が、影山くんの方から逸らされる。バッグを肩に掛けながら、彼は席を離れた。

「んじゃ俺、部活行くから」
「はーい、確かに預かりました。部活がんばって」
「おー」

 その背中を見つめる。
 ちょっとずつ、ちょっとずつ速くなった彼の足は教室を出ると駆け足に変わった。教頭先生とかに見つかって注意されなきゃいいけど。苦笑を落としながら、私も室内の電気を完全に落として教室を後にした。





 影山くんのノートを職員室の担任の机に提出して、無事、任務完了。
 何だろう、すごい濃い一日だった気がする。ずるずると肩からずり下がってしまったスクールバッグを掛け直し、昇降口へ向かう。
 靴を履き替え、校門へ向かおうとした足が、ふと何かに囚われたように別の道を歩き始めた。

 『早く終わらせて、部活行きてえの』

 その言葉に惹かれたのかもしれない。
 すごいすごいって思っても実際見たことのない影山くんの姿を、私は見てみたいと思った。授業で使ったことのある第二体育館の屋根を目に捉える。昔から烏野高校には文化祭とか体育祭の応援とかで足を運んでるから、迷子になることはなかった。

 白いコンクリートで覆われた壁の向こう側。
 ボールの跳ねる音やシューズのスキール音、ホイッスルさえも掻き消してしまいそうなくらい大きな声が聞こえた。轟音、罵声、怒声のどれとも取れるような、とにかく気合の入りまくった数人分の声に私は尻込む。近づき難い雰囲気だ。部外者が見てはいけないような気がして、帰ろうかと思った。
 けれど、そういえば影山くんも最初近づき難いと思っていたことを思い出して、私の足は留まった。そりゃ今も怖いな、と思うけど、でも。
 スコアブックを見つめながらあれこれと語っていた、あの楽しそうな瞳をもう一度、見たい。

 意を決して、私は少しだけ開いていた扉の先から体育館を覗いてみた。差し込んだ光の眩しさに目を凝らす。

 圧倒された。
 目で追うのもやっとなくらい速いスパイクやサーブ。それを的確に柔軟に受け止めるレシーブ、それから。

(影山くんだ……)

 コートの中央に向けて綺麗に上がったファーストタッチ。その落下点で構えている姿は、紛れもなく影山くんで。長袖のジャージの袖を巻くり、そこからすらりと長い両手が自由自在に色んな角度へトスを上げている。

 セッターだったんだ、と小さく零した。二対二のミニゲーム式で、影山くんの相方はうちのクラスにもよく顔を出す日向くんだった。
 二人の息はまるで予めそう決めていたみたいにぴったり合っていて、ぎゅんっと弧を描いたトスがあっという間に相手コートのエンドラインぎりぎりに打ち込まれていく。

 すごい、と今日何度も何度も抱いた言葉を反芻する。
 影山くんがバレーをしている姿を直に見て、私は生唾を飲み込んだ。同時に綺麗、とも思った。どんなに体勢が崩れても影山くんの指先は的確にアタッカーの位置にボールを上げる。魔法の指だ。
 そんな現実味のない言い方しても恥ずかしくないくらい、それは適切な表現だったと思う。

 全身から溢れるように流れる汗も物ともせず、飽きることなくひたむきにボールを追いかける姿。眩しくて眩しくて、私は内側で何かが焦がれたことに気付きもせずその場にしばらく立ち尽くしていた。