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 最悪だ。
 こめかみを押さえながら向かえた午後の授業は、一切身が入らなかった。ノートだけはきっちり取ったけど、それだってきっと後から見返したら意味の分からない部分もあるだろう。少し落ち着いたらちゃんと復習しよう。落ち着くっていつだろう。

『ヨーグルト飲んでたやつ』
 影山くんの言葉が蘇る。何もそんなピンポイントに指摘しなくても、と思わずにはいられなかった。





 放課後の一歩手前、ホームルームを終えた担任から「ちゃんと再提出分、もってこいよ」という横暴な念押しが入ったことで更に私の身は強ばった。絶対に行かないとだめですかっていうオーラをこれでもかってくらい押し出してみたけど、彼は平然と「頼んだぞー」って教室を出て行ってしまった。
 薄情だ。いや、完全に逆恨みだ。そんなことを考えながら、自分の席より後ろにある影山くんの席を見た。意外と言っちゃ失礼かもしれないけど、起きてた。しかも私が昼休みに返したノートを広げてる。
 でも、肝心の手は動いていない。これでもかってくらい眉間に深い皺を刻んで、ちょっと耳を澄ましたら唸り声でも聞こえてきそうな形相だ。苦戦しているのは傍から見ても一目瞭然だった。
 
(どうしよう、かな)

 私はどの部活にも所属してない。アルバイトもしていない。だから基本的に放課後が来れば、待っているのは自由時間だけだ。不運にも学級委員なんてものになってしまったけど、その活動だってそう頻繁にあるわけじゃない。たまに集りがあって、先生の頼み(という名のパシリ)を引き受けたりするくらい。だからそう時間に追われることはない。
 対称的に影山くんはどこか落ち着かない雰囲気だった。そわそわと時計を気にしては、忌々しそうにノートへ視線を落とす。その目が、一瞬机の脇に下げられている鞄に向いた。エナメル製のスポーツバッグ。ああ、と私は納得した。

「……影山くん」

 その仕草で彼が部活の心配をしているんだろうと悟る。
 一生懸命になれるものがあるんだからそれを優先したいって気持ちは分からなくもないし、純粋にすごいって思える。
 だから、ってわけじゃないけど。

「あのさ」

 突然話しかけられた彼はちょっとだけ瞠目して、それから「何?」と短く問いかけてきた。

「よかったら私、教えよっか。数学」

 いつもなら言わないようなことが、この時はなぜかさらりと口を衝いて出た。ほんの少しの応援心というか、お節介というか。そんな軽はずみの提案だった。それなのに影山くんは僅かに表情を明るくして、机から身を乗り出した。

「ほんとか?!」
「や、あの、昨日の分の課題だよね? それなら私も提出してるし、ちょっとは力になれるかもって」
「じゃあ頼む」
「えっ、早速?」

 おう、と相槌を打ちながら、影山くんはペンを取り出した。
 その切り替えの早さに驚く。でも彼は一分一秒が惜しい、って言いながら課題の題目が書かれた欄を、シャーペンの先でとんとんと叩いた。

「早く終わらせて、部活行きてえの」
「そっか……そうだよね」
「ヨロシクオネガイシマス」
「なんで片言なの」

 軽く笑いながら、影山くんの前の席に腰を落ろした。

 さっき昨日のことを指摘された時は気まずく思った。けれど影山くんはそれ以上変に追求してきたり、からかってきたりしなかった(それどころじゃなかったのかもしれないけど)。
 やがて私以外に人がいなくなった室内。ただシャープペンの走る音と時折挟む私の助言だけが、緩やかに静寂の中に溶け込んで行った。