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「……だれ」

 掠れた声。ぼんやりとした目つきは起こされた不快感をあからさまに示してて、思わずたじろぐ。でもここまでしておいて、目的を果たさないまま逃げるのは良くない気がしたので慌てて机に放置していたノートを手に取ると、「影山くん、これ」と彼の目前に差し出した。

「なに、コレ」
「再提出」
「え」
「放課後までだって」
「……何で」
「や、分かんないけど」

 緩慢な動作でノートを受け取って小首を傾げる様が、普段の近寄りがたさとはかけ離れてて不思議だ。
 そんな彼のぼやっとした手つきで開かれた紙面を見て、ああ、と私は納得の声を上げた。

「……たぶんその真っ白さが原因じゃないかな」

 見事に昨日の授業中に提示された課題の設問から答えまですっぱり真っ白だった。むしろこれじゃあ何でノート提出したかも知らないんじゃ。影山くんにとっては取るに足らないことなのかもしれないけど。
 あくびをしてはまっさらなノートに目を落とし、興味なさそうに顔を背ける。それから彼は自分の腕の下に敷いていた黒いカバーの冊子をおもむろに開いた。その中に書かれている内容に、私は唐突に昔を思い出した。

「それ、スコアブック?」
「知ってんのか」

 高校生だった烏養さんが、小学校に入ったばかりだった私をバレーの道に引き擦り込もうとか何とかで頻繁にバレー関係の物を持ってうちに来ていたことを思い出したのだ。
 烏養さんのご両親とうちの両親は仲がいい。そこにかこつけての目論んでたようで、私はその道からものの見事に反れてしまったわけだけど。

「ん、うん。近所のお兄さんがここのOBで、小さい時にたまに見せてもらってたんだ」
「へえ」

 ぱらぱらとページを捲る手に釣られて、私も中身を覗き込む。
 「K」とか「SA」とか一見すると意味の分からない記号が並んでるけど、分かる人にはその試合の内容が一目で分かるものだ。私も久しぶりに見たけれど、大体の知識は記憶には残っていたからそれがどんな試合展開なのか、何となくだけど想像が付いた。
 対戦高校の欄には青葉城西と書かれている。私の友人も何人かその高校に行ってる。なじみのある校名だ。
 選手名の欄には影山くんの名前があった。4番。それを基にローテーション表を見ると、左下の丸に手書きで4と書かれている。
 影山くんが試合に出ている。

「影山くんてバレー部だったんだね」
「あ? ああ、まあ」

 しかも1セット目から名前があるってことはスタメンなのか。まだ高校に入学して一ヶ月くらいなのにすごい。純粋に感動して、声に出しても「すごい」と言ってしまった。影山くんはとても意外そうに私を見ていた。

「スコア上で自分の癖だとか、試合のラリーの原因だとか。そういうものが見えてくるから欠かさず見てんだよ」
「へえ」
「スパイクの決定打は高いけど反対にサービスエースで連続ポイントを取られてることが多いから、やっぱりレシーブが課題。そこで連打を止めるためにどこへトスを上げる必要があるかってところで」

(影山くんってこんなに話すひとなんだ)

 多分、ほとんど独り言だろうな。まるで昨日のことのように試合を思い出しているようだ。スコアの端にコート図を描き、その時のローテーションを再現しては線を引っ張ったり丸で囲んだりしてる。すごい集中力だなあ、と素直に感嘆した。

 何かを頑張ってる人は純粋にすごいと思うし、尊敬する。でもいざ自分がそうなれと言われたら、多分、無理だ。

「あ、悪い。で、コレ放課後だっけ」

 スコアブックから顔を上げた影山くんが、ようやく私がここいいる意味を図ってくれたらしい。
 さっきまで目をくるくる丸くして、フォーメーションを次々と考えていた思考回路が一気に停止したようだ。分かりやすく表情が曇る。眉間に寄せた皺の深さが、勉強に対する嫌悪感をありありと示していた。
 
「うん」
「つーか、えーっと……」

 影山くんが真っ白なノートから顔を上げる。
 真っ直ぐに見つめられた瞳を、私は苦手だと思った。何も悪いことはしていないのに、何となく後ろめたい気持ちに駆られる。

(でも、さっきだれって言ってたっけ。てことは、昨日の……覚えてない……?)

 突然現れた(影山くんからすれば)正体不明の女だ。
 それはそれで別に良いけど、やっぱり同じクラスでこれから一年やっていくんだから名前くらいは覚えておいて貰っても損はないだろう。幸いなことに昨日の最悪な出会いは彼の記憶から消えているようだし。

「苗字。同じクラスだよ」
「……ふうん。同じクラスだったんだな」
「って、え?」
「昨日の、お前だろ」
「えっ」
「ヨーグルト飲んでたやつ」

 前言撤回。覚えていた。