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 昼休み、クラスの数人分のノートを抱えて職員室の扉を開けた。
 すぐにクラスの担任(20代後半で、独身。恋人募集中らしい)がこっちに気付いて「悪いな」なんて名ばかりの謝罪を述べる。いいですよ、ってこっちも名ばかりの愛想笑いしてノートを預ける。
 颯爽と職員室を出ようとしたのに先生からは「あ、苗字。待て」と呼び止めが掛かった。思わず渋い顔をして、振り向く。
 学級委員という肩書きのせいで、入学して以来あれこれ用事を頼まれては貴重な休み時間がことごとく潰されて来たのだ。せっかくの長い昼休みをぺしゃんこにされてたまるか、と思いつつも反抗する勇気もない私は、結局「なんですか」って担任の元に戻ってしまった。名ばかりの愛想笑いを浮かべて。

「これ再提出分。影山に渡しといて」
「えっ、」
「学級委員なんだから頼むよ。放課後までに再提出っつってな」

 学級委員って言ったって、誰もやりたがらない役職の貧乏くじを見事引いてしまったのがたまたま私だっただけで。そんなに偉いものでもないじゃないですか、と言うと「学級委員は先生の次に偉いんだよ」って斜め上から励まされた。嬉しくない。
 差し出されたノートに目を落とす。紺色の表紙の下に名前を書く欄があって、ちょっと角ばった字で「影山飛雄」という名前が書かれていた。本人が目の前にいるわけでもないのに、背筋が自然と伸びる。
 昨日の今日、だ。
 いま考えても意味の分からない認識され方して、ここで冗談のひとつでも言えればよかったんだろうけどそんなレパートリーもない私はただ固まったまま、影山くんと見詰め合った。ひどく、時間の経過が緩やかだった。
 会話が繋げず身も心も間も持たないと確信して、私は一目散に彼の前から逃げ出した。
 今日だって学校へ来るのにすごく勇気が要った。自意識過剰かもしれない。でも、万が一のことがあるかもって意気込んで、まるで戦場にいく兵士みたいな気持ちで教室に入ったら影山くんは寝てた。
 そういえばさっき教室を出る前も朝と同じ姿勢でいたような。つまるところ午前中、彼の起きてる姿は見ていない。勉強は大丈夫なんだろうかっていう心配と、自分勝手な安心感のどっちもを抱いた。
 それなのに自ら話しかけに行くなんて、どんな所業だ。

「じゃー、頼んだぞ。先生は今から飯だから。邪魔すんな」
「えっ、横暴」
「教師は横暴なくらいで丁度良いんだよ」

 結局、提出する数人分のノートと引き換えに影山君のノートを預かった。
 これは、なんかあれみたいだ。わらしべ長者。例えばこのノートを影山くんのファンの人にあげたら何か別の良い物が貰える、とか。ファンがいるか知らないけど。

「失礼しましたー」

 軽くお辞儀をして、職員室を後にする。
 人の気配で温くなった廊下の空気は生暖かくて、四月半ばの陽気が容赦なく窓の外から差し込んでくる。紫外線対策は今のうちから、というテレビCMを思い出した。避けるものがなかったので影山君のノートを日除け代わりに教室へ戻る。ファンの人に殺されそうだ。いるか知らないけど。

 自他共に認める優柔不断の小心者っていう自覚はあった。「いつからンな立派な優柔不断様になったんだんだよお前は」という烏養さんの何気ない一言を思い出す。
 いつから、なんて明確には分からない。
 人に合わせて意見を変えたり、積極的に発言してもその勢いの出端を折られたり、自信を持っただけ失敗した時の羞恥が大きいことを覚えたり、そんな経験をしてるうちに自然と。自然と自分の意見を貫くことを諦めた。
 何かを頑張ってる人は純粋にすごいと思うし、尊敬する。でもいざ自分がそうなれと言われたら、多分、無理だ。
 失敗を恐れることはいけないと分かってても、やっぱり自分のことは大事だ。だから何事も決められずにいる。中間を取りたがるし、他人任せになる。そんな自分を、お世辞にも好きだとは言えない。

 教室に戻る間、そんなことを考えてた。特に何かのきっかけがあったわけじゃない。でも、考えることもなかったから昨日のことを思い出しては悔やんでた。
 あの時、35分も悩まなかったらあんな風に影山くんと顔を合わすこともなかったんだろうな、と。

「……影山くん」
「……」

 教室に着いて、一緒にご飯を食べようと誘ってくれた友達に影山くんのノートをひらひらと翳す。と、彼女達は「がんばれ」と残して去っていった。
 ああ、やっぱり誰から見ても影山くんってそうなんだな、と変に納得してみる。
 このクラスじゃ滅多に彼と話してる人はいない。だからって除け者にしたりとか、そんな幼稚なことはしてない。隣のクラスの日向くん(何かと騒がしくてこのクラスじゃみんな名前を知ってる)や、先輩らしき人は訪れるってのが大きいと思う。
 それから。
 それから、本当にたまにだけど違うクラスで影山くんのことを噂してる人もいる。
 あからさまにモテモテだ! ってタイプの人に付いて回るような代物じゃない。「少し近寄り難いけど、かっこいいかも」なんていう、密かに、慎ましく、本当に小さな噂。

 そんな本人を目の前に、ぐっと息を呑む。勇気を振り絞って呼び掛けたにも関わらず、目の前の彼は机に突っ伏したままだからだ。
 よほど疲れているんだろう。一体どれくらい練習したらこんなに熟睡出来るんだろう。というか起こして良いんだろうか。寝不足で死なないだろうか。

「か、影山くん。お、おーい、影山くん」
「……」

 お、起きない。どうしよう、どうしよう。
 ノートを置き去りにしても構わないだろうけど、もしこのまま放課後まで起きなかったらそれはそれで大問題だ。何せ放課後までに再提出、なわけだから。というかご飯食べたのかこの人、って余計な心配までしたくなる熟睡っぷりにまごつく。
 こじんまりとした机に器用に組まれた腕の上ですやすやと気持ち良さそうに寝息を立ててる影山くんの顔を覗き込んでみた。片目だけ見えるけど、その瞼はきっちり閉ざされていて全く起きる気配がい。
 どうしよう。その寝顔をまじまじと見つめていても埒が明かない。自分の中にある勇気を総動員させて、手にしていたノートを机の上に置くとそっと彼の肩へ腕を伸ばした。

「か、かげやまくーん、起きてくださーい」

 肩に触れる。窓際の席ってこんなに暖かくなるんだ。影山くんの制服がたっぷりと吸い込んだぽかぽか陽気が手のひらに移って、なんか変な感じだった。
 学ランの上からだとよく分かんなかったけど見た目じゃ想像出来ないくらい二の腕とか肩とかが、がっちりしてる。いかにも男の子っていう感触。それを自覚すると、自ずと手が止まった。
 親しくない(というより全く喋ったことのない)男の子に触れてる。その事実を客観的に見てみると、もしかして今自分はとんでもないことをしているんじゃないか。そんな不安に駆られ、触れていた手を離した矢先のことだった。
 ようやく、影山くんが顔を上げてくれたのだ。