marque-page | ナノ







 授業中ペンケースに入っていた蛍光ペンを取ると、あの付箋が巻きついたままになっていることに気付いた。取り忘れていたんだなあ。丸く癖づいた紙の端を摘むと、指先に影山くんが書いた文字が当たった。
 ありがとう。
 角ばった字。筆圧はちょっと強くて、付箋の裏側に少しだけインキが滲んでる。
 歴史の教師はその間、黒板にどこの地域のか分からない地図を描き始めていた。さらさらと流れるような手つきで描かれていく曲線。それに倣うように、教室内にはノートに書き写そうとするぺんの音がところどころから聞こえた。
 指先でくるんとペンを一周回して、それから前を向く。
 寝ている影山くんの髪の毛が、開放された窓から入り込んだ風で揺れている。ふよふよと揺れるそれをじっと見つめていると、眠気に誘われた。ちょうどいいくらいの静寂。いつもの風景。穏やかだと思っていた日常は、それでも私にとっては少し変わってしまった。
 あの時よりも危ういバランスの上に成り立っている気がして、ざわりとした感覚に身を撫でられる。そうしてしまったのは、ほかでもない自分の一言だ。

 『好き』。たった二文字で、私と影山くんの間の距離は再び開いてしまった。
 そう言った時、影山くんの動きがぱたりと止まった。怖くて、足が竦んで、逃げ出したかった。でも中途半端にしちゃいけないって気持ちで顔を上げたら、そこにはすごく、すごく傷付いた顔をした影山くんがいた。ああ、だめだった、って。そう思うと同時に影山くんは「また明日な」っていまにも消え入りそうな声で言って帰ってしまったのだ。

 あの夜から、三日経った。その間、私と影山くんは必要最低限の接触しか持たなかった。前から後ろへプリント配る時とか、反対に後ろから前へ渡すノートの回収の時とか。
 会話はない。今までだったらそんな時にも一言二言の短い会話を交わしていて、それがつまらない授業におけるちょっとした香辛料の役割を果たしていた。
 それなのに。
 話しかけることも、目も合わない。明らかに私と距離を置く影山くんの姿勢に引き摺られるように、私も彼に話しかけることはしなかった。月曜日の朝は、緊張した。話せないかも、でもいままで通りにしたら、彼は応えてくれるかもという期待と緊張感を両合わせにしながら教室へ来たら影山くんは私を見なかった。つまり、そういうことなのだと悟った。

 今でもあの夜のことを思い出す。
 どうして言ってしまったんだろうという疑問。でも不思議と、後悔はしてなかった。きっとあのタイミングじゃなくてもいつかは言っていた。それがたまたまあの日だっただけ。いつかは、こうなる関係だったんだ。そう思い込むことで、涙は出なかった。
 ただひたすらに、虚しいだけだった。





「あれっ」
「おう」

 学校の帰り道、校門を出てそう経たないうちに坂を上ってくる人物に私は声を上げた。相手も片手をあげ、こちらに気付く。

「烏養さん、どうしたんですか」
「コーチングだよ」
「ああ、そっかあ」

 そういえばバレー部のコーチ、してるんでしたっけ。
 烏養さんは苦笑して、「感情の籠もってねえ声だな」と言った。いつものラフなスウェットとかパーカーとかそういう格好じゃない。見慣れない上下ジャージ姿だ。似合わないなあ若作りっぽいなあと言う感情を含めて顔を緩めると、目の前に立った彼は容赦なく私の頭を軽く引っぱたいた。

「いったっ!」
「今なんか失礼なこと考えやがっただろ」
「エスパーか!」
「考えてたんだな?」
「うっ……」
「最近のガキはどいつもこいつも躾がなってねえんだよ、ったく……」
「別にうちのお母さんとお父さんは普通ですよー烏養さんだって知ってるでしょ」
「じゃあお前の姿勢がなってねえ」

 何も言えず、私は唇を尖らせる。頭で考えるだけなら自由だろう、と言ったところでうまい具合に烏養さんにおちょくられるのが目に見えてるからだ。大人には、どうやったって口で勝てない。まず勝負しようってところからしてお門違いだけど。
 烏養さんはちらりと携帯の時計を見たあとで、「で?」とこちらを伺った。え、と短く聞き返す。烏養さんはめんどくさそうに首筋を掻いた。

「ガキが一丁前に何悩んでんだ」
「えっなんで」
「バレバレだっつーの。今のお前は店で何買おうかなあって悩んでるときのアホ面とは違うからな」
「ア、アホ面……」

 事実だろ、とはき捨てるように言いながら、烏養さんは笑った。
 何でもお見通しなのか、烏養さんを見ると口元を手で覆いながら宙を見てる。ああ、これから部活の指導に行くんだから煙草は吸えないよね。その仕草を見て、十歳年上の彼もまた分かりやすい部類に入るんじゃないかなと思った。