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(影山視点)

 月曜、早朝。
 体育館の鍵が開錠される前から俺は外周に身を投じていた。校舎の壁に掛かっている時計は5:30を示している。こんな時間に起きたのは入部する時の一悶着以来だろうか。でも、眠れなかった。寝ても短時間で目を醒ましてしまった。それで、目を開けるとどうしても昨日のことを思い出してしまう。

 好き、と言われたのは初めてじゃない。今までも何度かそういう経験はあったし、高校に入ってからも何度か呼び出しを受けたことはある。でも、苗字からその言葉を貰ったときはそのどれとも違う心境だった。
 変だ。何が変だ。今までと何が違う? ……分からない。
 そんな邪念を掻き消したくて、誰よりも早く学校に来て俺は走った。そうしてると余計なことを考えなくて済むからだ。
 途中で呼吸を整えながら、上体を伸ばす。
 早く、早くと心が急かす。時間が早く過ぎ去ってくれ。バレーがしたい。ボールに触れたい。体育館に行きたい。より一層強く、願った。
 いまは、考えていたくない。





「あ、影山、影山」

 朝練を終えて、部室から教室へ向かおうとすると背後からひょっこりと菅原さんが現れた。この展開は、と顔が引き攣る。

「昨日、全日本の試合会場居たべ」

 前にも、あった気がする。

「……はい」

 何かまた火種になりそうなことを言うのかと身構えたが、菅原さんはにこりと笑って「やっぱなー」というだけだった。心臓に悪い。しかも今は「昨日」っていう単語で別のことも思い出してしまうから、出来ればその話題は避けたかった。

「チケット手に入ったんだな。じゃんけん負けて悔しがってたじゃん」
「まあ、ちょっとしたことで」
「すごかったよなー。俺もめっちゃ騒いだわ」

 その間に先輩も同級生もぞくぞくと部室を出て行っていた。俺と菅原さんは最終的には二人になり、ぽつんと静まり返った部室で、気まずく思いながら「あの、俺、教室行くんで」と切り出した時だった。

「彼女となんかあった?」
「……は」
「今日の声だし、いつもより出てなかったぞ」
「……」
「増してや昨日あんな試合見たのに、今日のそのテンションはおかしいだろ?」

 よく、見てますね。素直に口にすると菅原さんはにかっと白い歯を見せて、分かり易いよお前はと言った。
 エナメル製のバッグの肩紐を掛ける。ずっしりとした重みを感じながら、別に、と交わそうとしたところで菅原さんが指先に巻いていたテーピングをくるくると外しながら、俺の言葉を掻き消した。

「昨日、仲良さそうに歩いてたじゃんか」
「……見たんですか」
「いや、別に探したとかじゃないよ。見かけたら、一緒に歩いてた。そんだけ」
「前も言ったじゃないっすか。クラスメイトだって」
「まあ、それはいいんだけどさ」

 ぴりぴりとテーピングが剥がれていく音に乗せて、どこか心配そうな顔をしている菅原さんが俺を見据えた。真っ直ぐな、目。この人の、こういう目。やっぱり苦手だ。そう思いながら、顔を背ける。逃げだと思った。
 途端、悔しくなって、俺は再び菅原さんに視線を向けた。もうこっちからは外さない。網膜に力を入れて自分を身長の低い菅原さんを見下ろす。と、菅原さんは苦笑しながら「変なとこで対抗すんなよ」と言った。

「ま、そんだけ元気あんなら大丈夫だな」
「え」
「何があったかは分かんないけど、あんま溜め込むなよ」

 テーピングのなくなった手のひらで、ぽん、と肩を叩かれる。不思議と今まで背負っていた意味の分からない感情や焦りや困惑みたいなものが徐々に解けていくような気がした。さすが先輩、というべきなのか。部室を出て行く後姿を眺めながら俺は深く、深く息を吐き出した。

『コーチと、仲良いんだな』

 少し前に、苗字に伝えようとした言葉があった。あの時そう伝えたかった。でも途中で何かがおかしいって思って、繰り返し紡ぐことを躊躇った。
 その戸惑いの本当の意味がいまになって、徐々に自分の中に芽吹く。

 もしかしなくても、あの時から始まっていたんじゃないか。そんな風に思った。