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 学校を出ようとした手前で、「苗字?」と呼ばれた。その声の主に、心臓が跳ねる。まさか、と思いながらも振り返った先、ジャージ姿の影山くんがいた。表情にはどこか疲弊の色が見える。部活帰りだろうか。僅かな緊張をはらみながらも「や、やっほー」と片手を挙げた。

「今から帰んのか」
「うん。先生からの頼まれごとが長引いて」

 へえ、と相槌を打ちながら彼は私の方へ歩み寄ってきた。彼から距離を縮められるのは初めてで、私は自然と背筋が伸びた。それからてっきり挨拶だけして帰るだろうと思っていた影山くんが、普通に私の歩幅に合わせて歩くのを見て、えっ、と間抜けな声が出た。

「何」
「帰らないの?」
「帰るけど。苗字も帰んだろ」
「え、うん」
「じゃあ帰るぞ」
「えっ、えっ?」

 何だよ、とぶっきら棒に聞かれて私は混乱した。
 ジャージのポケットに手を入れて、さも当たり前のように一緒に帰るっていう影山くんの姿勢が、おかしい、なんか、おかしい。これじゃあまるで影山くんが送ってくれるって、ああ、違う。途中まで一緒だから。それだけだ。そう結論付けたのに、見事に彼は「送るっつってんだろ」と短く言ってその結論をぶち壊した。

「えっと……」
「何だよ文句あんのか」
「いいの?」
「お前ん家どこ?」
「あ、歩いてすぐだよ。だから送るとか、その、別に大丈夫だよ」
「危ねえだろ」
「……あ、」
「あ?」
「アリガトウゴザイマス」
「何で片言なんだよ」

 そういえばこんなやり取り、ちょっと前にした気がする。同じことを思ったらしく、影山くんは苦い顔をしていた。

 学校の正門を出て、緩やかな坂を下る。登校するときやいつも帰ってる夕方とは打って変わって、辺りはしんと静まり返っていた。
 見慣れた風景、等間隔にぽつりぽつりと設置された街灯が、ぽっかりと暗闇に浮かんでる。その中を私たちは、私の歩調に合わせたペースで進んでいた。
 その途中で、影山くんが「あ」と短く切り出した。
 道の左手にある坂ノ下商店、その軒先に並んでる自販機に目が行ったみたいだ。「今度は勝手に押すなよ」と先に釘を刺された。

「しないってば」
「どうだか」
「苗字は?」
「あ、今はいいや」
「あっそ」

 ちゃりん、と小銭が投入口に吸い込まれていく。ピッという音と同時に点灯した光の中から彼は迷うことなくボタンを押した。
 迷わない。影山くんは全然、迷うってことをしない。それが、やっぱりすごいなあって純粋に思う。
 取り出し口にあわせて屈んだ背中を見つめる。と、軒先の扉がガラガラと開かれた。
 あ、やばい。そう直感しても遅かった。のっそりと姿を現した烏養さんの目と、私の視線ががっちり合わさってしまった。