すっかり影山くんの提出物に関する云々を担任から一任されてしまった私は、今日も問題集を徴収するべく職員室から教室へ戻ると真っ直ぐ彼の席へと近付いた。頻繁に彼に話し掛けるようになっても、ありがちなクラスの男子からの冷やかしとか女子間の噂話とかはそれほどない。
「…………なに」
たぶん、影山くんへの畏怖が強いからだ。下手にからかったらガン飛ばされる、ってクラス中がもう熟知している。そんな無意識で無言の圧力が掛かってるから、私も話しかけることに対してそこまで意識することはしなかった。ありがたい話だ。
まあ、実際「影山くんのこと好きなの?」ってこっそり聞いてくるクラスメートはいたけど真っ白な影山くんのノートを見せたらみんな一様に好奇心より同情を強めた。同情されてるよ、影山くん。本人は知らないに違いない。
「ん、気にしないで。ちゃんと提出出来るかなあって見守ってるだけ」
「そんなじっくり見られたらやりづれえんだけど」
「影山くんそこ間違ってるよ」
「あ?」
どこ、と尋ねられ、私は課題の一番最初の問題を指差した。授業中に一度やった問題。
なんていうか色んな意味でこのひと、すごい。深く息を吐き出す。解答欄に消しゴムをかけていた彼が「こんな問題分かるわけねーだろ」なんて言うから、おかしくて私は笑った。
「怖いっていうか、不器用なだけなんだろうなあ」
ぴたりと消しゴムを掴んでいた手が止まる。その指先をじっと見据えた。きれいに切り揃えられた爪、部活のせいか少しだけ荒れている。
この指先が、あんな綺麗な弧を描くトスを放つのだ。
「誰が」
「影山くん」
「……何の話」
「こっちの話」
努力の結晶みたいな指先から、目を反らす。それから彼が苦戦していた問題に使う公式を問題集のはしっこに走り書きしながら、昨日加賀から聞いた単語をぽつりと呟いた。
「王様って」
「……」
「呼ばれてたって」
「何でそれを」
「噂で」
さすがに個人名はまずいだろう。そう思いつつ影山くんを見て、それが正解だったと思った。たぶん個人名出してたら、……いや、何も考えないでおこう。とにかく彼はすごく複雑そうな難しい顔をしていた。初めて見る表情だ。
バレーしてる時や難しい問題に向かっている時のそれとは違う。心の奥深くに根付く嫌悪感を抑え切れていない感じ。何が彼をそこまで不機嫌にさせているのか。言わずもがな、王様、と呼ばれていることを嫌悪しているのだ。その呼び名は、きっと彼にとっては名誉でも栄光でもなんでもない。
私は「でもさ」と続けた。
「詳しいことは分かんないんだけど、どっちかが決めなきゃいけないじゃん試合って」
「あ?」
「こないださ、バレー部の練習見に行ったんだよね」
「ウチの部か」
「そう。で、どこにトスあげるかってさ、判断難しいじゃん。でも勝てるって確信があるなら、そこにあげて付いてこいって主張するのは別に独裁でもなんでもないよねってわけで」
関係ないだろとか、憶測はやめろとか。
てっきりそういう類いのものを言われると思ったし、覚悟もしてた。それなのに影山くんは眉間に皺を寄せたまま私を見ているだけだった。不思議と、拒まれているわけではないみたいだ。私の思い違いでなければ。
影山くんの強い眼差しから逃げるように、問題集の隅に今度は猫の絵を描いた。美的センスの欠片もない、歪で目付きが悪くて、あんまりかわいくない猫。
「私は優柔不断だから。そうやってスパッと決めてもらえる方がいいなってだけの話」
「……」
「で、その方法が影山くんはちょっと不器用だっただけの話」
猫の眉間に皺を描いてみると不思議と影山くんに似てるような気がして「やばい、影山くんそっくり」と口に出すと、即座に消しゴムで消された。
せっかくの思わぬ傑作が勿体ない。諦めて握っていたシャーペンを机に置くと、ちょうどクラスメートから「影山〜、客!!」とこちらに向かって声があがった。
クラスメートのいる背後に、見慣れない顔。詰襟のクラス章と上履きの色でその人が三年生だと知った。影山くんが席を立つ。その時に問題集を閉じようとしたから、私がすかさず課題のページにシャーペンを入れ込んだ。
「戻ったら続きやろーね」
「……」
「放課後までに提出なんだから」
「わかってる」
舌打ちでもしてきそうな剣幕は最初の頃よりは慣れた。
「影山くん」
「ん」
クラスの入り口へ行こうとした影山くんの背中に呼び掛ける。彼の前の席に座ったまま私は「ごめんね。変な話して」と謝った。
意外そうに目を丸くした姿は割とレアかもしれない。そうしていくつもの表情を見ていけばいくほど、緩い確信を得る。他人のことだからはっきり断言出来ないけど、
「いや、こっちこそ悪いな」
「なにが?」
「気を遣わせたんなら」
「ん? 使ってないよ」
「そうか」
やっぱり影山くんは不器用なだけだったんじゃないかな。まあ、高校に入ってなにか変わるきっかけが出来たのかもしれないけど。