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 その日から授業中や休み時間は専ら前の席の観察をすることが多くなった。日常の中での些細な変化だ。
 と言っても相手は大体寝てることが多いから、観察日記を書け、なんて言われたら内容に困るほどの変化しかないけど。たまに起きるときの動作とか、珍しく授業の最初から起きてると思ったら途中から眠気に陥落していく様子とか、寝てると思ったら放課後のチャイムが鳴ったと同時に一目散に教室を出て行く姿だとか。
 誰かにバレない程度にこっそり見てるだけ。板書をしようとして前を向くと大抵視界に入るから不自然さはないと思う。たぶんだけど。
 それから日常の中の些細な変化、その二。

「苗字、プリント」
「んーありがとー。そういや影山くん、今日、問題集提出だよ」
「っ?!」
「聞いてなかったんだね……まあだろうなとは思ってたけど」
「……」
「良かったらまた教えるけど……」
「頼んだ」
「あはは。りょーかい」

 影山くんと何かと話す機会が多くなった。これも彼が起きてるときに限るけど。

 で、昼休みがあと10分ほどで終わろうとしてる今現在。何人かのクラスメートと中庭でご飯を食べ終えて席に戻ったら、ふと前の席が空っぽだと気付いた。どこかへ行ってるのかな。そんなことを思いながら席に座り、次の授業の教科書を引き出しの中から引っ張り出す。
 えーと次は、と時間割の挟んであるクリアファイルを眺めていたところで、眼前の椅子が引かれた。
 戻ってきたんだ。一瞥を向けると、影山くんが紙パックを片手に座るところだった。そのパッケージに見覚えがある。数日前、烏養さんに奢ってもらったあの飲むヨーグルトだ。
 「ヨーグルト飲んでたやつ」と影山くんが私のことをそう称していた数日前のことを思い出す。その意味に気付いて、ああ、と合点した。あの日の坂ノ下商店で、最後の一個だった飲むヨーグルトを奪った奴。影山くんから見たら私はそんな存在だったんだ、と。

「……何こっち見てニヤニヤしてんだよ」

 と、影山くんが私の視線に気付いたらしく、訝しげな顔を向けた。ストローをずずっと啜り、椅子に座った背中をくるりと翻しこちらへ向き直す。あ、と小さく声が出そうになったのを慌てて押さえる。
 いつも背中ばっかり見ていたから、用事もなくこうやって向き合って話すのは初めてかもしれない。

「えと、別に何でも」
「嘘付け。何で笑ってんだよ」

 ぎろりと鋭い光が射抜く。観念して、私は指先を彼の手元へ向けた。

「それ」
「あ?」
「飲むヨーグルト。好きなんだね」
「好きっつーか、これ買うことが多いだけ」
「ふうん。その割には根に持ってたみたいだけど」
「何の話だよ」

 影山くんは忘れてるらしい。確かに、そんな些細な出会い方をしたあの日は少し遠くに感じた。そんなに日は経ってないのに不思議だ。
 小さく笑いを零すと、影山くんの眉間に盛大に皺が寄った。癖なのかな、こういう表情。そんなことを考えながら、私は机の中から教科書を取り出した。

「次、英語だよ」
「……」
「え、聞こえない振り?」
「聞こえねえ」
「聞こえてるじゃん」
「うるせーなあ」

 圧迫感のある話し方も、それが彼のいつもの話し方だと知ってしまえば不思議なことに怖さもなくなった。それは、こうして何より前後の席になったことが大きい。
 遠い存在だと思っていた影山くんを少しだけ近くに感じられるようになった。相変わらずバレー部の特定の友人しかいないようだし、先輩やマネージャーさんや顧問の武田先生が来たりするくらいで影山くんの何かが変わったわけじゃないと思う。私の中で影山くんに対する識見がほんのちょっと変化しただけだ。
 それでもあの日体育館で見かけた影山くんの姿を思い返すと、漠然とした緊張感に駆られる。どれだけ実際の距離が縮んでも、やっぱり私にとって影山くんは遠い存在なんだと否応なく痛感させられるからだ。