お題 | ナノ







 誰も彼のことを止めることなんて出来やしないんだろう。雨に濡れ、ずっしりと重みを増した装備の先からぽたりぽたりと滴る雫が玄関の高級そうなマットを濡らす。そんな足元を見て、彼は舌打ちをした。

「おい」
「はい?」

 その光景を見つめていたのは今宵の見回り番を言い渡された私だけで。明かりの付いたランプを掲げ、リオン様のお顔を照らすとその瞳が忌々しそうに細められた。

「何ぼうっとしてる」
「いえ、寒そうだなあと」
「……」

 ランプの下部に設置されたレンズがきらきらと輝きを放つ。
 ここにいるメイドたちはみな(マリアンさんを筆頭に)過保護だから、客員剣士であるリオン様のこんな姿を見たら大慌てで屋敷中を走り回るだろう。かなりの大事に発展するだろう。ここに私しかいなくてよかったですね、とは決して口に出して言えないけれどその代わりに、からからとランプを揺らした。明かりに連なり、彼の姿が消えたり現れたりする。
 ふう、と一つ暗闇の中に溜息が落ちた。
 それを掻き消すくらいに大粒の雨が、玄関の先から聞こえる。

「こんな夜中にどちらへ?」
「お前には関係ないことだ」
「そうですね。でも風邪を引かれたりしたら困るんですが」
「お前には関係ない」
「じゃあ明日風邪引かないでくださいね」
「……」
「今夜の見張り番は何をしてたって責任問われてもこいつは関係ないって庇ってくださいね」

 自己保身だな、と彼は嘲笑った。どうとも言ってください、と静かに呟いたつもりがやけに廊下に響き渡ってしまったので背筋が少しひやりとした。誰かが起きてきて、ずぶ濡れのリオン様と何もせず突っ立ったままの私を見たらこの屋敷にいる連中は誰しもが同じ思想を持つだろう。
 ここは彼にとっての箱庭だ。彼はそのことに半分は納得しているように見える。でももう半分はどうだろう? 大事なひとがいて、父親がいて、地位だって暮らしだって悪くない。むしろ甘ったるすぎるほど彼は恵まれている。
 でも本当にそうだろうか。

「リオン様」

 真意を聞けるような立場じゃないし、彼にとって私は認識する価値もない。そんなことくらい重々承知だ。でも、掲げたランプの先で揺らめく彼の姿。闇に隠れる度にその部分からすうっと消えてしまいそうな儚さがあって、いつもの強い瞳からは考えられないほどにその姿はおぼろげで。よくよく考えてみれば、それは今だけじゃない。いつだって彼の存在はあやふやなんだ。

「タオル持ってきましょうか。それとも余計なお世話だから止めときましょうか」
「何でそれを僕が決めるんだ」
「……じゃあ、持ってくるので、じっとしててくださいね」
「命令するな」
「どっか行ったりしないでくださいね」
「……」

 こんな彼を見て、誰も何も思わない。手を差し伸べて、抱き締めて、大丈夫だよと囁いてあげるべき人がそれをしない。本当にこの世界は正しいのか、そんなことも分からない。でも、結局誰がどう言ったってリオン様の考えは変わらないのだろう。
 タオルを取りに行くため、くるりと彼に背を向けて歩き出す。なるべく足音を立てないように、慎重に進む途中でふと背後を振り向いてみた。
 暗闇の中で凛と佇む姿は、頑な意思の現れだ。一介の女がどうこうしようって方がおかしな話で。

 せめて彼が風邪を引かないよう一刻もはやくタオルを取りに行こう、そう思い、再び前を向いて歩き出す。
 窓を打ち付ける雨粒が、一層強くなった気がした。