お題 | ナノ







(両片想い)

 よう、失敗したらしいな。

 長屋の屋根の上に、彼は軽快な口調と共に姿を現した。眼前に現れた彼を私は睨み上げる。せっかく、せっかく誰もいないここでなら思いっきり落ち込めると思ったのに、見事にそれをぶち壊されてしまった恨みも兼ねて。どんよりとした夜の闇の中で、誰にも気づかずひっそりと落ち込んで何事もなく明日を迎えたかったのに。
 邪魔しないでよ、食満。膝を抱えている自分が何だか惨めに思えて、余裕たっぷりの彼の口元が憎たらしくて、それに何も言えない自分がみっともなくて。とにかくひどく、卑屈になっていた。

「いいんじゃねえの」
「食満ってさあ」
「ん?」
「よく言うよね」

 「いいじゃねえの」、彼が先ほど言った言葉の語調をそっくり真似てみると、食満は「似てねえ」と失笑した。そんなだから変装の課題も溜め込むんだよ、とも。
 変装は仙蔵あたりにでも聞くからいいよ、後回しで。強く言いのけて、とにかく会話を終わらせようと試みた。

「いいじゃねえか」
「ほら、また」
「今のうちだけだ、失敗が命に関わらないのは。経験しといて損はねえだろ?」
「成績には関わるよ」
「そりゃ秤が釣り合わねえだろ」
「食満のはね。私は釣り合うよ、どっちも大事。命も成績も」
「ゴーマンだなあ」
「悪い?」
「いや?」

 いいんじゃねえの、

 食満のそれは、私の、私自身に対する認識を甘くさせる。甘えてはならないのだと、強く保っていないとすぐに流されてしまいそうだった。軽快に、優しく、温かく笑う彼の近くは居心地が悪いし、心臓に悪い。それでもこうして彼は私が実習で何かやらかす度に会いに来てくれる。そしてその度に「いいじゃねえの」という。

「留年したらどうすんの」
「そん時はそん時だろ」

 豪快なことを言って豪快に笑う食満を見上げては一つ、溜息を吐く。でも、それでもやっぱり彼が好きだってことはしみじみ感じてしまう。唇を尖らせて、せめて何か一つでも言い返してやろうと口を開く。

「……楽天家」
「おお、何とでも言えよ。大体一年くらい、大したことねえだろ。泣くほどのもんじゃねえ」
「泣いてない」
「嘘付け。目赤え」
「こっち見んな」

 暗いからバレないだろうなんて憶測は甘かった。目元の熱を隠すように、抱えていた膝に顔を埋める。どこか得意げに「一年くらい待ってやる」だなんてほざく彼の言葉を聞き流しながら、私はやっぱり悔しいなと唇を噛み締めた。待ってやる。その言葉を、私は信じようとしない。あまのじゃく。かわいくない。

 いいんじゃねえのと紡ぐ彼の唇は、いつか、遠くない先の未来で彼は痺れを切らしたように「いい加減にしろよ」だとか「よくねえよ」だとか、対照的なことを私に言うだろうか。
 それを想像してみて、私はぶるりと震えた。怖かった。拒まれることも、飽きられることも。だったら食満とはこれ以上距離を縮めるべきではないと思う。少なくとも、今は。
 いつかちゃんと私が一人前のくのいちとして名乗れるようになったら、その時は何かが変わるかもしれない。まあ、現実はそう甘くないってことは、ちゃんと理解してる。
 だから、仄かに抱く思いは伝えるどころか自覚することも本当はしてはいけないこと。だろう。たぶん。自分でも持て余す感情の行き先をよく分かっていないけど。

 嘲笑うように、夜風が吹きぬけた。目元がひりひりと痛みを訴えていた。