お題 | ナノ







 扉を開けた先には珍しい光景が広がっていた。ドアノブを握り締めたまま、呆然と彼の姿を見据える。いつもは見下ろす角度、今はうなじが痛みを訴えるほど上に向けている。普通なら有り得ない位置。いつものかわいい格好じゃない彼に、私は硬直していた手を何とかぎこちなく動かしながら、「まいど、です」と言った。自分でも分かるほど、棒読みで。

「おう、何か用か」
「えと、じゅりからの言伝で、マリアベルに用事が」
「あいつなら少し買い出しに行ってんぞ」
「ありゃ。タイミング悪い」
「ここで少し待ってたらいいだろ。そのうち戻ってくるぜ」
「じゃ、遠慮なく」

 部屋の隅にあるパイプ製のハンガーラックに、スーツの上着を掛けながら雄飛さんは答えた。がらんとした広い執務室。区長として、彼が日頃仕事に従事している場所だ。一般人は易々とは入れない区域。そこに自由に立ち入り出来るということは、じゅりさんやマリアベルさんとほぼ同じ年頃の私にごく自然に付随していった特権だ。
 何度も足を運んだことはあるけれど、彼の成長(と表現してしまうのは何か変な感じがするけど)した姿と対面したのは初めてだった。

「ていうか雄飛さんて、本当に大人だったんですね」
「何だそりゃ」

 くくく、と笑って、雄飛さんは部屋の中央にあるソファに腰を落とした。その片手には煙草。テーブル上にあった灰皿を引き寄せながら、「大人ねえ」と何故か感慨深さを滲ませながら反復する。かちりとライターで火が灯され、室内に白煙がくゆる。
 すらりとした指先、そこを始点に雄飛さんの全身を改めて隅々まで見つめた。グレーのスラックス姿。濃いグレーのワイシャツ、解放的に緩められたインディゴブルーのネクタイ。いつもと違う格好だからだろうか。まるで他人と話しているような気分だった。私よりずっと高くなった身長。すらりと整った彼の姿は、まるで一輪挿しに飾られた花のように綺麗で凛としていた。
 立ちっぱなしもなんだから、と、同じように雄飛さんの正面にあるソファに腰掛けてみたものの、どこか落ち着かない気分が晴れない。

「そんな珍しいもんかあ?」
「え?」
「区から出るときはいっつもこれだぜ」

 紫煙を吐き出しながら、彼は言った。どこかくたびれた気配があるのはその区から出る用事とやらのせいだろうか。お疲れなんですね、と特に感情も込めずに尋ねると彼は何も言わないで灰皿に、とん、と煙草の灰を弾いた。
 その無言が却って気まずく感じる。勝手なことだけど、何か話していないと落ち着かない。沈黙の中でふと冷静になった瞬間に、雄飛さんと私の間にある細く色を持たない繋がりがぷつりと途切れてしまいそうで。
 ばかみたいな考え。まるでそれを一蹴するかのように雄飛さんが口を開いた。

「会議でな。ったく……長ったらしい話を何もせず煙草も吸わずで聞いてんのは毎度骨が折れるぜ」
「でもそれが雄飛さんの仕事でしょう?」
「マリアベルみたいなこと言うなよ」

 溜息さえもいつもの姿じゃないせいか、妙に余所余所しさが募る。マリアベルがいつも言っていた。雄飛さんは子どもの姿の方がかわいくて、例え弱まっていた力が戻ったとしてもずっとそのままでいて欲しいって。今ならその気持ちが身に染みるほど分かる。

「遅えな、マリアベル」
「そう、ですね」
「あいついつも買い物は早いんだがな」
「……へえ」

 と同時に、彼女が雄飛さんのことを深く理解している事実を突きつけられて、私は俯くことしか出来なかった。

 こんなにも思いあってる二人の間に私はただの人として、どちらになびくことも出来ず浮遊するだけなのだろうと。強く感じた。