お題 | ナノ







 遠く、以前よりもずっと狭くなってしまった空を見上げる。これ以上広がった景色を、私は見たことがない。光化学スモッグだったかそんなへんてこな日本語で名付けられた煙がもくもくと立ち上がっていた。かつて青いと称された面影はどこにもない。まるで初めから、それが普通だとでもいうかのように空は汚かった。

「わーかーさーくん」
「んー」
「あーそびましょ」
「何して?」
「夜の営みとか」
「今は昼間だよん。あとここ、家じゃないから残念」

 若桜は寒いと笑った。私はそうだねと呟く。彼は雑誌に添えていた手を伸ばし、トレーの上のコーヒーカップを持つ。流行りの歌が流れる街中の雑踏を蔑むかのように、外の景色を一瞥した後でそれを口元へと運んだ。カフェの窓際は、私達のために用意された特等席のようだ。二人以外に座る人の姿はない。大都会の真ん中で、非常に珍しい光景に思えた。ただし冬も近づいたこの季節下、肌寒いほどに効いた空調のことを考えると真理のようにも感じられる。
 ふうっと湯気を吹き消した若桜が、もう一度寒いと言った。

「ね」
「ん? うん。ちょっと寒いかも」
「ちょっとぉ? 俺はかなり」
「若桜寒がりだしね」
「コーヒーの味は悪くないんだけどねえ。おっしーい」
「いいんじゃない? この季節でも暑いと思う人がいるかもしれないし」
「んなニッチなニーズに答えるためにこれだけ広い平米を使うの? 信じられない、目を疑っちゃうわあ」

 経営戦略はこうあるべきだとか、そんな雑学を繰り広げる若桜の傍らで私は遮光のためにアイレベルあたりまで降ろされたウィンドウカーテンを捲り上げる。そこから広がる外の景色を見つめた。
 朝(といっても私達の朝は10時過ぎだ)、出掛ける前に見たテレビではニュースキャスターが一日快晴だと報じていた。おかしいな、快晴だなんて思えない。それほど、濁った空だった。もしかしたら窓ガラスのせいかともしれない、そんな考えを私はすぐに否定する。これが普通、世の中で定められた「快晴」なのだ。

「快晴」
「んー確かにいい天気」

 覗き込む私の横で若桜も同じように斜め上を見上げる。ゴーグルに覆われた彼の瞳は本当にそんなことを思っているのか分からない。

「もしかして」
「ん?」
「若桜がゴーグルしてるのって」
「んん? 言ってなかったっけ? 視力補正のためだよ」
「嘘がバレたくないから?」
「……視力補正のためだよ」

 「それに俺は、君と違って嘘なんか付かないから」楽しげに若桜は言った。それに同調するように、コーヒーカップがカチャンと音を立ててソーサーに置かれる。
 嘘なんかつかない、と否定しようとした言葉を飲み込む。にやにやと意地悪く吊り上げられた若桜の口元がそれを言わせてくれなさそうだったからだ。代わりに小さく息をつき、乱暴な手つきでアイスティーの入ったグラスを持ち上げる。グラスの側面の滴が手につき、ひやりと私の体温を奪おうとしていた。

「つめたっ」
「ははは」
「何その、だからホット頼めば良かったのにー的な笑みは」
「だからホット頼めば良かったのに」
「一々言葉にしなくても……なんか、面白くない」
「俺は面白いよ〜」
「恋愛ってのは」
「なに藪から棒に」
「同じ方向を向くことなのですって言った人もいるのにねえ。なにこの両極端」
「人に大切なのは個性だって言うっしょー」
「誰が言ったの?」
「俺」

 鼻を啜る。嘲笑しようとしたことをそれで誤魔化した。けれど若桜にはお見通しだったらしい、「笑わないでちょうだいよ」と唇を尖らせた。
 私達がここを訪れ、すでに六十分は超えた。その間、店のドアを潜ったのは二組の男女だけだ。そのことを不満に思った若桜が唇を尖らせたまま、言った。

「納得行かないなあ。味はまあまあなのに、この閑散とした様は経営の仕方が悪いとしか思えない」
「若桜って経営学もかじってんの」
「んーん専門外。だけど、こんなのぱっと見たら分かることでしょ?」
「さあ」

 確かに先程挙げた二組の男女も、既にこの場にはいない。味に満足する間もなく、空調の設定温度に嫌気が差したのだろうか。
 がらんとした室内で、時折陶器を洗うようなかちゃかちゃとした音が響いていた。その中に、あんぐりとした若桜の顔は妙にアンバランスな感じがしておかしさが込み上げてきそうだ。

「さあって」
「や、だって私はその、経営者ってやつじゃないし」

 アイスティーを口に含み、一緒にかじりついたストローを歯で挟む。するとその光景を見た若桜が「欲求不満なの?」と尋ねてきた。

「どっかの誰かさんがガタクタばっかりに目を向けてるから」
「ごみーん。でも俺、根っからの草食男子だから。それにあいつらはガラクタじゃなくてダイヤモンドの原石みたいなもんなの」
「うわー、草食男子て。それ大分前に流行った言葉じゃん、古いよ若桜」
「え? じゃあ今は何て呼ぶの?」
「性において無害と位置付けられる生物とか?」
「長っ」
「付き合う前は俺のCPUになってーだの何だの言ってた癖に。男ってのはこれだから」
「わーお大胆、でもいま昼間。しかも外。さっきも言ったかもだけど〜」
「罰としてこのアイスティー飲みなさい。シロップ三つ、ミルク二つの私特製アイスティー」
「ぷ。それもう紅茶じゃないじゃん」

 一体どこに彼の笑いの琴線が触れたのか分からない。とめどなく溢れる笑い声に、深々と眉間の皺が寄るのを自覚しつつ、私はストローを思いっきり噛み締めた。噛み癖というのは欲求不満からくるもんなんだよ、と他人事のように愉快下な若桜の声はこの際無視してやった。この草食男子、この性において無害に位置づけられる生物め。覚えてろよと内心だけで舌打ちする。一体どうしてほしいのかは自分自身よく分かってないけど、たぶん欲求不満というのはあながち間違っていないんだと思う。
 部屋に戻ったら襲ってやる。そんな危険思考を孕みながら、噛み千切られたストローのプラスチック部分の味気なさを日常と重ねては、忌々しく若桜を睨み上げた。