お題 | ナノ







 実習を終え、覆面と共に使用していた長布を外す。一気に新鮮な酸素が肺を通り抜けると、どっと背中に汗を掻いた。今の今まで呼吸の仕方を忘れていたかのように忙しなく、私の心臓が伸縮を繰り返すと、途端に生きているのだという自覚が舌いっぱいに広がった。
 お疲れ様でした、ありがとうございました。引率にあたっていた先生に一礼し、自室へ戻るすがらであろうことか嫌な人物と出くわしてしまった。夜が明けた朝一番という煌びやかな空間にもっとも似合う奴で、私の知る限りの顔の中でもっとも出会いたくないと思っているやつ。
 奴は一人だった。ぼさぼさと量の多い髪を一つにまとめあげたいつもの格好のそいつは、廊下のきしむ音をまるで楽しむような足取りでこちらへ近付いてくる。かと思えばとうとつに欠伸を一つ噛み締めたり、縁側の風景につまらなさそうな瞳を向けたり。忙しくてたいそう、面倒くさいやつだと思った。それはもう、いつものことだ。
 逃げようかとも思ったけれど生憎ここは一本道で、分岐点は奴の後ろ、もしくは自分のはるか背後。内心だけで舌打ちをおとしながら、それでもややあって視線が合ったからにはと、渋々「おはようございます鉢屋三郎くん」と息つぎもせず言い放った。あとは知るか、返事も待たず通り抜けようとすると目の前に翳りが差した。

「……ちょっと」
「ん?」
「何。どいてくれない」
「お前がどけばいいだろう」
「あんたが道塞いだんでしょうが」
「そうか?」
「別に良いけど」

 奴の脇を通り過ぎようと足を斜め右に向ける。けれどすぐに鉢やは私の前に回り込んだ。「随分と今日は構いたがりなんだね」とあざわらうように言えば鉢屋は、冗談だろ、と鼻を鳴らした。
「構われたいのはお前の方だろう」その言葉に、はあ、と呆れた息を漏らした。
 朝、と呼ぶにはまだ早い時間帯だ。こんな時間に活動しているのは実習に身を投じていた生徒もしくは教師くらいなのに、そのどれにも該当していない奴が現にいる。鉢屋三郎。この男は正真正銘、読めない。いつ寝ているのか、いつ起きているのかすら曖昧で明確にならない。授業中はもちろん起きているのだろう。でも気付けば寝ている。その顔は不破雷蔵を似せて作ったものだから、彼の本当の顔は今どんな表情をしているのかなんて誰にも分からない。本当に寝てるのかすら誰にも分からないのだ。こいつ自身、理解していないんじゃないかとすら思えてくる(自分の顔がどんなだか忘れたというくらいだから)。
 自然と浮かび上がる疑問に、さして考えもせずに私はそれを口にしていた。「あんた、なんでこんな時間に起きてるの」と。鉢屋は口を歪めて、笑った。

「どっかのどいつが人恋しくなっているかと思ってな」

 いま、奴の本当の顔は笑っているのだろうか。そもそも不破雷蔵の顔をして、どうしてこいつはこんな風に笑うのか。嫌な角度に曲げられた薄い唇からどっかのどいつ、と私を名指しするように紡ぐ神経が分からない。どっと背中に流れた汗が冷ややかな風に煽られ、体温を下げていく中で、奴の言葉だけがそれを食い止める。
 悔しいけれど、的確すぎて涙すら零れなかった。

(他人の血はあれほど、たくさんこぼしてしまったというのに)