お題 | ナノ






 
 十条さんの部屋は複雑怪奇だ。訪れる度にそんなことを思うし、使い古した湯呑みで出されるコーヒーを飲む度にその言葉を飲み込む。
 熱いブラックに入れるものはこの場にはない。砂糖が欲しかったら台所にあるよ、と言われ一度見てみたことがあるけれど料理に使用する上白糖しか見当たらなかったし、牛乳なんて日持ちのしないものは買わない主義らしい。というか、あってもそれは腐りに腐ってもしかしたら固形物にすら成りかねない。とっくに諦めて、苦くてあまり好きじゃないそれを口に含む。底の部分が少々欠けているその湯呑みはネットオークションで手に入れたのだと以前、誇らしげに語っていたのを不意に思い出した。貴重なものだから割らないでね、とも言っていた。
 私がブラックコーヒーを唯一飲む機会だ。この味を噛み締めていると、十条さんに会っているという実感を持つ。チャイムを鳴らし、足の踏み場もない作業場からひょっこり顔を出した十条さんの顔を見ても一切そんな感情は持たない。なぜなら彼の顔面には分厚いゴーグルが覆われているし、なにより私を出迎える言葉が軽く薄っぺらさそのものだからだ。「いらっしゃい」なんて、望んでもいないくせに。
 掲げたクリアファイルを見て、彼は「このご時世に律儀だねえ」と感嘆した。

「ペーパーレスの今時分、発注から依頼から何でもデータ上で行うのが通例だよ?」
「私はアナログ人間なので」
「まあ、見る限り……ハイテクには見えないよねえ」

 まるでパソコンの部品を物色するような視線。ゴーグルの奥に薄っすらと見える彼の瞳はおかしそうに細められていた。現代の会社では滅多に使わなくなった紙資源を十条さんへ渡す。ぺらりとしたそれを受け取りながら、彼は深く思案しながら文面に目を走らせていた。その横顔から目を逸らす。相変わらず座る場所も立っている場所すら確保出来ない乱雑とした室内。部品ひとつだって彼にとっては依頼人である私なんかよりも大切だ。そのどれもを壊さないよう、触れないよう、細心の注意を払いながら足を踏み入れた空間で、私の心臓はちくちくと痛みを患っていた。
 私はここへ訪れる。その理由は仕事以外何もない。会社から何度もデータ化を唆されてもなお、サーバ上で彼との接点を持つことを忌避した。
 それをしてしまえば、彼と私を繋ぐ人間らしい接点は何もなくなってしまうからだ。そこまで分かっているなら、と頭を抱えたくなる。ちくりと痛むのは会社への背徳感、どうしたってその先なんか望めやしないという諦め、もしくは恋煩いなんて年端もなく似合わないものが原因だろうか。
 かっちりとしたスーツに身を包む私とは対称的にラフそのものを表現したような十条さんは、うんうん、と何かに頷いた。それから私の資料を元に、パソコンの画面に向き合い何かを打ち出す。その画面には見たこともないような言語で埋め尽くされていて、私はすぐに目を逸らした。意味が分からないくらいに、彼は頭が良い。それなら、こうして足を運ぶ私の意図にも気付かないだろうか、なんて小さな期待も持ってみたりした。でもたぶん、彼は気付かない。

「十条さん」
「前から思ってたんだけどさあ」

 そう言って、彼は自分の分のコーヒーが注がれたタンブラーを傾ける。作業時間が長いから、マグカップでは消費が追いつかないのだろうか。
 ひらひらとこちらが渡した資料を振る。それを受け取るために伸ばした矢先、すぐに紙が引っ込められ私は「え」と間抜けな声を上げた。

「その十条さんっての、やめない? 堅苦しいの好きじゃないし」
「……でも」
「やめないっていうか、やめて? 俺の希望だからどうしてもってなら諦めるけどね〜」
「私、あなたのクライアントですよ、ただの」
「一言余計だよ」

 どの部分がですか、と咄嗟に尋ねてしまった。 
 椅子に座ったままの彼が、テーブルの淵に座る私をゆっくりと見下ろしてきた。きい、と背もたれがしなる。

「言わなくても分かってる癖に」
「……私、アナログ人間なので」

 緊張に包まれた咥内の唾を飲み込む。彼の淹れてくれたブラックコーヒーの味が心臓にダイレクトに痛みを行き渡らせているような気がして、私は顔を歪めた。