お題 | ナノ








 顔を上げる。目の前には日誌を書く弧爪くんの姿が結構な近距離にあって、思わず生唾を飲み込んでしまった。弧爪くんとは全く接点がなくて、同じクラスというだけだったのに席替えをしただけでこうして近くで彼を見られる特権を得てしまった。くじを引くとき、私は一生分の運を使い果たした気がする。
 黒板にチョークで丁寧な字で私と弧爪くんの名前が書かれていた。朝、登校してからそれを見た瞬間に一気にその実感が湧いて、放課後のこの時間になるまでそれはまるで永遠に続くものだと思い込んでいた。そんなことはないのに。あるわけがないのに。
 今まで話したこともなかったから当然だけど終日、弧爪くんはよそよそしい態度だった。元々人との関わりを持ちたがらない性格なのは遠巻きからでも理解出来たし、無理にその距離を縮めたいとも思わない。むしろ日直っていう学校のルール一つで一気に縮まった距離に私も困惑しているくらいだから。
 丁寧な字で日誌の欄が埋まっていく。私は文章がへたくそだから、今日の出来事や留意事項なんて頭で考えても実際書いてみてもしっくりこなかった。それを弧爪くんは難なくクリアしていく。頭が良いんだろう。ずば抜けて成績が良いっていうイメージじゃなくて、日常生活で生かせる頭の良さというか。さらさらと残されていく筆跡を追っていると、「あの」と弧爪くんが口火を切った。珍しい。というか、本日初めての出来事だ。これこそ日誌に書くべきじゃないかとも思った。

「ん?」
「そんなに見られると、……書きにくい」
「あ、えーっと……ごめん、あんまりにもスラスラ〜って書いてるからすごいなあって」
「すごくなんかないよ」

 謙遜するような声に、「そんなことない」と否定してみる。弧爪くんと視線が合うことは結局一度もなかった。でも、言葉を交わすたびにどんどんと惹かれていく自分がいるのは確かだった。関わりを持たないようにしてる。その割には、彼の言動の端々には柔らかさや優しさが詰められている。本当は優しいひと。だけど優しいからこそ人との関わりを持ちたがらない。
 それならそうするべきかなとも思った。
 日直という一つの接点だけを大事にして、明日からはまた、席が隣同士という関係だけが持続されて。日々が過ぎ去ってまたこうして黒板に名前が綴られるようになったら、距離が縮まって。それでも良いかもしれない。そうして、少しだけ弧爪くんに私の名前を覚えてもらえてたらこんなに嬉しいことはない。
 そう思っていたのに、弧爪くんはあろうことか私の苗字を呼んだ。

「え」
「……え?」
「弧爪くん、私のこと知ってるの」
「え、え? そりゃ……知ってるけど」
「覚えてるの」
「覚えるけど」

 あっさりと叶ってしまった願い。しまったなあ。これ以上何を望めというのだろう。それなのに数週間か一ヶ月かそこらが経ったらまた私と弧爪くんはこうして放課後に日誌を書くはずだ。その時までに私は欲張りになってしまいそうだ。
 ここの欄、書いてもらえるかな。そう言って渡された日誌の背表紙をなぞる。どんどん貪欲に嵌っていくのは、誰のせいだろう。紛れもなく自分の性格が原因にもかかわらず私はあろうことか弧爪くんにその責任を擦り付けてしまいそうだった。嫌な奴だ、と自嘲した。


( 許されるなら私の名を、呼んで欲しい。 )