お題 | ナノ







 現実に目を向けろよ、と教科書で叩かれた頭が痛い。

「だってー」
「だってもクソもない」
「クソはあるよクソは」
「女がクソとか言うなよ」
「自分が言い始めたんじゃん」

 お前こないだの実力やばかっただろ、なんて言われてしまえばぐうの音も出ない。出そうとしたところでまた教科書で叩かれるだけだ。たぶん今度は表面じゃなくて角で。されてもいないのに私は無意識に額に手をあてがった。紺が首を傾げる。

「何してんの」
「防衛反応」
「は?」

 手だけじゃない。意識もまた、意味の分からない言語から一刻も早く逃避したいと願っていた。つまり勉強したくない。図書館へ来る前は珍しく満ち溢れていた勉学精神は見事、紺の登場でかき消されていた。自分にとって勉強っていうのは、それくらいランクが低い。
 正面の席に座っている紺の様子を見つめる。窮屈そうな詰襟を広げ、制服で出来る限りのラフそのものを表現したような彼の姿に、私は嘆息した。
 脱色されたにも関わらず痛みのひとつも見当たらなさそうな繊細な髪は、遠くにいても一発で彼が紺だと見分けが付くくらいに派手だ。素行だって悪い。問題児というか、問題にする以前の問題だ。今日も学校にひょっこり現れたと思えば目を離した隙にどこかへふらふらと行って、最終的に今この時間になって校内施設の一つである図書館でこうして再会を果たせた。私が気まぐれに勉強しにでも行くか、なんて気分にならなかったら会えなかったかもしれない。
 そんな偶然を喜んで欲しいのに目の前の男は得意のポーカーフェイスをここに来て一度も崩していない。
 勉強しに来たんなら勉強しろ。当たり前の言い分だけど、腹立つ。それでも言い返せないのは彼の成績のすごさを知ってるからだ。

「頭脳明晰さんには分かんない悩みでしょうねー」
「はあ?」
「凡人は悩みが尽きないものなの」
「何悟ってんだよ」
「悟りたくもなるわ」

 高望みな想いだという自覚はある。容姿端麗、頭脳明晰、性格はまあ難ありだけどそれ以外を除けば、世の中が彼を放っておくわけない。何の変哲もない平凡そのものの私が、彼に好かれている事実だけとってもそれは奇跡と呼んでいいくらいだ。
 詰まらなさそうに教科書を眺めていた紺がふと顔を上げると同時に、私は彼から目を逸らす。酷い顔をしている自覚があったから、こっちを見ないで欲しかった。それをあえて口に出すと余計惨めだから言えないけど、たぶん、紺にはバレバレだと思う。

「別に何とも思ってねーから、好きにしとけよ」
「え?」
「や、何とも、は嘘だな」

 く、と小さく笑った声がした。

「そういう人間らしいとこが、お前の長所だろ」

 顔が熱い。やっぱり彼には何も隠し事なんて出来ない。誤魔化すように教科書に顔をうずめると、本の隔たりの向こう側で小さく「つーか俺だって悩んだりするんだからな、お前のことで」と妙にふてくされた声が聞こえた。どうしよう、と考えを巡らせる。

「ねえ紺。紺はなんで図書室に来たの?」
「……」
「ねえってば」
「それくらい察しろ」

 今、顔を上げたらきっと真っ赤だとか笑われそう。だけど紺の顔が見たい。その両極端の間で私はクーラーの風に煽られる空気みたいにゆらゆらと揺れていた。わかんないよ、ちゃんと言ってくれなきゃ。そう答えて、私は笑った。

「お前がいたからだよ、悪いかよ」
「……」
「黙ってニヤニヤすんな」
 
 期待通りの言葉が返ってくる。そんな確信があったからだ。