お題 | ナノ






(長編「アヴェマリア」設定)



 最悪なことに、駅の改札を潜ると雨が降っていた。秋雨前線の影響で、午後から夜に掛けては雨が降るでしょう。そう言っていた朝のニュースを思い出す。にもかかわらず折り畳み傘をゼミの講義室に忘れてきてしまったのだ。
 よりによってそういう時に予報を的中させなくてもいいじゃないかと唇を尖らせていた矢先、最近機種変更をした携帯がぶるぶるとポケットの中で揺れた。
 軒先のある駅の出入り口付近まで行って、柱に寄りかかる。ポケットから取り出すと、そこに映し出された名前に僅かに顔が綻んだ。

「暁くん?」

 開口一番、そう言うと電波の向こう側で少し沈黙が広がった。あれ、と小さく声が出る。でもすぐに私の名前を呼んで、「びっくりした」と続けた。

「何が?」
『……まだ、講義かなって』
「ああ、6限目突然休講になっちゃったから。今帰ってるところだよ」
『へえ』
「びっくりさせてごめんね」
『ううん。電話、出て欲しかったから』
「え?」

 出て欲しかった、という珍しく彼が主張したことに首を傾げる。
 傾けたまま、あっと開いた口が塞がらなかった。視界の片隅に見知った顔があって、それがどんどんこちらに近付いてくるのが分かったからだ。
 おかしい、と気付く。青道高校野球部は練習が厳しくて毎日休む暇もないくらいに忙しいはずで、学校の授業だってあるし、寮で生活する暁くんとは月に一回とか二回、約束してようやく会える、もしくは私が我慢ならなくてこっそり練習を見にいくだけの頻度しか存在しないのに。どうして私の目の前に暁くんがいるのだろう。
 耳元に宛がっていたスマートフォンを危うく落としそうになって、慌てて持ち替える。その間に暁くんは私との距離を徐々に詰めていた。
 「どうして」と開口一番に零れた音声は、どうやら電波に乗って彼の元にも届いてしまっていたようだ。僅かに息を切らしたまま、暁くんは右手を翳した。左手は開かれた傘で塞がっている。もう片方、と視線を移す。

「雨、降ってたから」
「で、でもどうして」

 差し出されたビニール傘を受け取る。見透かされていた。そのことに驚きを声に乗せて暁くんを見上げると彼は「たまに、」と口火を切った。

「たまに、ドジでしょ。忘れたりしてそうだなって」
「暁くんには言われたくない。もってたらどうするの」
「その時はその時だよ」

 行き当たりばったりな言葉に思わず笑った。
 いつも思うけど、暁くんは自分の思いにどこまでも従順だ。最近になって頻繁に見に行くようになった練習でもそうだった。基本的な部分はちゃんとしてるんだ(と思う)けど、我が強いと言われたら黙って頷いてしまう。大体暁くんのことをそう評価するのは御幸くんだけど。苦笑気味に言って、困った後輩だよって言われて私は何も言えなかった。むしろすごいでしょって威張ってしまいそうだから。ノロケじゃないけど、たぶんこれはノロケって言われそうだ。
 もってきてくれて、ありがとう。
 私の言葉に暁くんは黙って頷いた。傘を差して、二人並んで歩き始めた。

「部活はどうしたの?」
「トレーニング室使えなくて」
「そっかあ」

 この雨だから、外でも出来ないもんね。そう言うと、そっぽ向いていた暁くんは「別に出来なくもないけど」と言った。おもしろくなさそうな口振り。よほど野球したかったんだろうなあ。それなのにこうして自分のことも少しは考えてくれている。そのことが純粋に嬉しくて仕方がなかった。
 先週までそこかしこにあった夏の気配は一個台風が過ぎていった瞬間にぱったりとその痕跡を途絶えさせた。街を行く人々の格好も一気に厚みを増していて、秋の訪れを否応なく感じてしまう。
 また冬が来る。そのことが嬉しかった。夏も好きだけど、私はやっぱり冬が好きだ。冬の訪れに、自然と唇が紡ぐ。ヴィヴァルディの「四季」。冬の部分にあたる第四楽章のメロディ。昔、子ども番組で唯一歌詞がつけられたものだ。
 いつか春の風が吹けば、歌いましょうあの日の歌。
 歌詞の内容は母を思う子どもが一人で冬の道を歩いているという内容で、とても明るいものじゃない。でも私はこの歌が好きだ。ひとりだけど、でも母と共に冬の道を歩きながら歌った思い出を大事に思いながら、前向きに春を待つ姿勢は決して暗いだけじゃない。

 私の隣には暁くんがいる。
 またクラシック、と言いたげな目でこちらを見る暁くんににんまりと笑みを返す。地面を打ち返す雨の音。しとしとと微かに聞こえるそれに耳を傾けながら私はそっと彼に手を伸ばした。

「手」
「……」
「つなご?」
「いいけど」

 了承を得て暁くんの右手を、自分の左手と合わせる。触れ合った瞬間、「冷たい」と苦情が飛んできた。確かに暁くんの手は暖かい。その温度の中間を手探りで探すように、私たちの手は分け合った。

「暁くんは暖かいね」
「そっちが冷たすぎなだけ」
「そうかなあ」
「早く帰ろう」
「ん、傘のお礼に暖かいご飯準備するね」
「……」
「あはは。お腹空いたって顔だ」
「うん」
「じゃあ、帰ろ」

 その行為を私は、冬の冷たさと夏の暑さを分け合う秋のようだと思った。