お題 | ナノ





(たぶん夢ではないです)



 相変わらずあの男の奏でる旋律には隙がない。悔し紛れに噛み締めた唇からは、微かに鉄の味がした。

「いらっしゃい、どうぞ、上がってください」

 寮に戻った足が不意に止められた先で、自分の見た光景に嘘が存在してくれていたらどれほどよかったか。繋がらない携帯、自分にだけ向けられていたのではないと現実を突きつけられた結果、足は自分の部屋とは真逆の方向へと走り始めた。

*

「……で、何故私のところへ来るのですか」

 心底不服そうな声に、目の前の男の冷徹さを改めて実感させられた。事情を打ち明けた相手に対し、その態度はないだろう。

「うるせー。みんな仕事で居なかったんだよ」
「で? 唯一同期でオフだった私の部屋に逃げ込んだ、と?」
「……お前ってたまに人間じゃねえと思うことがある」
「今すぐ出て行きますか?」
「悪かった」

 はあ、と深い溜息と共にトキヤは読んでいた雑誌を閉じる。

「まあ、少し驚きましたけれど」

 それからテーブルに置かれたソーサーに手を伸ばし、優雅にカップに口付けた。そして言葉は続く。「彼女と彼の関係に気付いていない方がいらっしゃったとは」。瞠目した。無意識に口があんぐりと開き、今しがた鼓膜を揺らした言葉の意味を無言で促した。ふー、と静かな吐息と共に白い湯気が揺れる。

「紅茶、折角入れたんですから」
「おう、……じゃなくてさ。なに? トキヤ、お前あいつらの関係、知ってた?」
「関係、とは?」
「……お互いの部屋に行き来するような関係、だよ」

 総じてそれを何と呼ぶか、翔は知っていたけれどあえて口に出すことはしなかった。曲がりなりにも、女性の方は自分の想い人なのだ。それを声に乗せてしまえば、認めてしまうことに近い。あの光景を見つめた際に噛み締めたことで傷がついたのだろう、唇の裏側にぴりっとした痛みが走った。対しこの部屋の主であるトキヤはいつもの冷静さを保った声調で「まあ」とだけ返事をした。

「……」
「私だけでなくレンも知っているでしょうね。……鈍感な音也あたりはどうか分かりませんが」

 「あなたもこちら側の人間だと思っていましたよ」、と。淡々と告げられる事実に、今すぐ耳を塞ぎたくなった。これ以上聞いて、認識して、理解してしまえば全てが現実になってしまうと。逃げ道として選んだこの場所で更に奈落に陥ることになるなど、この部屋に乱暴に上がりこんだときには想定もしていなかった。
 それでも自分の気持ちには、嘘がつけない。

「俺さ……あいつのこと好きなんだけど」
「その顔を見れば分かります」
「ていうか、それもお前、気付いてた?」
「あなたの尊厳のために、黙秘しましょうか?」
「何だよ、気付いてたのかよ」
「……」
「俺と那月って、いっつもそうなんだよな」

 乾いた笑みが、思わず零れる。となるとトキヤにとって自分は格好の観察の的にでもなっていたのかとか、これから那月に可愛いと言われるたびに劣等感に苛まれるのだろうかとか、とかく余計な感情が渦を巻いていた。
 いつも自分は及ばない。ヴァイオリンにしても、恋にしても。近付こうとすればするほど、あの男はその上を行くのだ。

「そうですか」
「お前さ、ほんと人間?」
「ええ、私はれっきとした哺乳類です」
「目の前で失恋したダチがいんのに、何の言葉もねーってのが……まあ、お前らしいっちゃお前らしいけどさ」
「そこで慰めの一つでも掛ければ良いのでしょうか」
「……」
「それで解決するような軽いことでしたら何も相手は私でなくても良いでしょう」
「……まあ、確かに」

 冷静に返される言葉が、今は自分の感情を落ち着かせてくれているような気がした。変に音也とかに相談しなくて、却って良かったかもしれない。トキヤの冷静さが今は中和剤となっていた。
 何だってんだよ、畜生。吐き掛けた言葉を飲み込む。悔しさや妬ましさはある。けれどトキヤの言う通りだと思った。落ち込んだり、どうしようもない事態になったことなんて今まで何度もある。
 その度に納得の行くまで全力で立ち向かっていったはずだ。出来ることはまだ残っている。
 強く握り締めた拳を、見つめる。実を言うと先程の光景を目撃してから、ずっと目頭が熱くて仕方がなかった。けれど。
 今はまだその時じゃないと、背中を押されたような気がした。

「サンキュー、トキヤ」

 立ち上がり、ソファに身を預けるトキヤを見下ろした。 

「私は何もしていませんよ。……ですが」

 その口元は僅かに、釣り上がっていた。

「紅茶一杯分くらい、勇気は出していただかないと見合わないでしょう?」

 高く付きますからね、と笑ったトキヤに翔もまた頬を緩める。うまく、笑えていたかどうかは分からない。けれど、見下ろした先。ティーカップに揺らめく自分の顔は少しだけ晴れやかだったと。
 そう信じている。