お題 | ナノ







(※彼女=ハンジさん)


 この広大な世界のどこかには海と呼ばれるものがあるんだよ。
 つぎはぎだらけの地図を広げながら、彼女は楽しそうに言った。うみ、という単語を咀嚼する。たった二文字の言葉なのにそこに溢れるほどの夢が詰まってる気がした。
 けれどそこへ行き着こうともがく度に人類は多くの命を捨ててきた。明日からの壁外調査で、私たちはまた仲間を見殺しにするのだろう。それはひょっとしたら私かもしれないし、彼女かもしれない。
 何度も地獄は見てきた。見てきた数だけ平等に人が強くなれるわけじゃない。世界にそんな理は存在しない。だけど壁の向こう側で、死はすべての者に平等に寄り添う。そこを切り抜けられるか否か。実力もあるけど、運頼みの部分もある。つまりいつ死ぬかなんてことは誰にも予測出来ないのだ。

「あー、どこまで行ったらそこに辿り着けるんだろう。海ってところには見たこともない巨大な生物が生息していて、巨人より大きなやつだっているかもしれない。そう考えるだけでワクワクしてくるよ」

 それなのに、調査兵団の人たちは自分の寿命をそっちのけで夢を見る。あるものは青々と茂る大草原を、あるものは遥か彼方まで続く険しい山脈を、あるものは光に反射しきらきらと輝く大きな地球の水溜まりを。

「相変わらずですねえ」
「だって! ほらこの文献。これによると、たくさんの人間が食われている巨人の体長を優に越す大きさの海洋生物を、その昔人々は捕食していたと書いてあるんだよ? つまりこの世界の捕食の法則は体の大きさ云々じゃないってことだ」
「……ああ、それは確かに。すごい」
「だろう?! その法則性を見極めるためには巨人もだけど、壁の外にしかいない生物をもっと検証するべきだ」

 饒舌に語るハンジさんの話を半分だけ聞きながら、室内の窓から外を見つめる。夜の帳の中、建物の一番高い場所に位置したこの部屋からは調査兵団の宿舎が一望出来る。明かりはぽつりぽつりと不規則に灯されていた。日が落ちてから随分と時間が経ったのにまだ多くの人が起きているようだった。
 緊張しているのか、高揚しているのか、はたまた恐怖からか。それぞれの人の感情は見えない。ただただぼんやりとした明かりだけが視界にうつりこんだ。
 出発を控えている調査兵団特有の緊張感に、身を置きたくなかった。だからこの団体の中でもとりわけ変人とされるハンジさんの部屋を訪れた。彼女の傍は不思議と居心地が良かった。
 例えばこれが最期の夜になると仮定して、遠征の前夜はそれぞれが思い思いの時間を過ごす。恋人、家族、友人。その繋がりを糧に明日私たちは旅立つ。
 糧にしたところで、なんの役にもたたないことは理解していた。私たちは人類のために心臓を捧げるという大義名分に誓いを立てたのだから。
 大事なものは大事だけど、個々が背負うには重すぎる代物で人は簡単に命を失ってしまう。今のこの時間は親いものたちへのせめてもの償いでもあった。
 そんな存在がいないというのもあるけど。

「ハンジさん」
「ん?」
「明日からの遠征、死なないよう頑張りましょうね」
「そうだねえ」

 この広大な世界のどこかには海と呼ばれるものがあるんだよ。
 いないならいないだけ、ただいまはその事実をあるがまま受け入れて、世界の果てを目指せばいい。その時見た世界の中で、私も彼女のように目を輝かせることが出来ればいいなと思った。