お題 | ナノ







 例えば「愛してる」、例えば「好きだ」。
 そのどれもがいつもなら響きかない。日常の中にすっかり溶けきってしまって、彼の言葉はさも当たり前のように私に届くからだ。好きと言う言葉は言い過ぎると現実味を持たなくなる。そんなことは百戦錬磨の恋をしてきたはずなんだから彼だって熟知しているだろう。それなのに年下の子供同然の私相手に、彼は事あるごとに好きだと言ってくる。今だってそうだ。
 残業したって終わりの見えない書類、雑務に終われ一人、また一人と明日の自分にその責を課して退出していく中。私と大佐はいつまでも残っていた。それは示し合わせたものではなく、私はただ単に区切りを見失っていたから。彼は、分からない。つまらなさそうな顔を浮かべながら判子を押したり、ペンを走らせたりしている。無言。でも、私たち以外の最後の一人がお先に失礼します、と言って退出していたことでその沈黙にも終止符が打たれた。彼が私の名前を呼んだからだ。

「何でしょうかマスタング大佐」
「……キリは付きそうかね」
「そうですね、さすがに今日中に全部終わらせるのは無理でしょうね、マスタング大佐」
「……」

 諦めなのか呆れなのか区別の付かない溜息。
 ペンを走らせながら、そんな彼に一瞥を向けるとどこか憂鬱げな表情が応える。

「実に白々しいよ」
「マスタング大佐」
「何だね」
「それは自己紹介ですか?」
「……」

 かちゃりと陶器の鳴る音がして、彼が傍らにあったコーヒーカップを手にした。そのまま煽るように中身を一気に飲み干す。大分お疲れのようだ、とその様を見てから「大佐こそ、早めに切り上げたらどうでしょう」と薦めてみる。分かっていないな、と呆れの声が聞こえた。
 
「私が何故いつまでも残っていると思っている」
「私のため、と仰るつもりですか?」
「ああ、全くその通りだよ」
「いやあ、てっきりその書類。明日までが期限なのかと」

 山積みになった束を指差す。大佐は、うっ、と喉を詰まらせた。
 そういえば、と私は自分のデスクの引き出しを開けた。そこには昼休みに友人からお裾分けしてもらったスコーンが二つ、綺麗にラッピングされてあった。その一つを手にして、席を立つ。
 彼のデスクへ置くと、しげしげとそれを眺めながら「手作りか?」と言った。どうしてそんなに嬉しそうに言うのだろう。

「そうですよ」
「そうか」
「友人のですけど」
「……そうか」

 だからどうしてそう簡単に落胆してみせるのだろう。
 まるでプライベートの空間そのものだ。ここは軍施設で、私と彼はまだ上下関係に縛られたまま。だからこのまま流されるわけにもいかない。そんな不手際をするくらいならさっさと仕事を切り上げてプライベートに転じたいところだ。

「たまには愛する君の手料理、なんてものも良いな」
「よく」
「ん?」
「よく、仕事中にそういうことが言えますね」
「ああ、そうだな」

 彼は自然と「好き」だの「愛」だの語る。それを一々真に受けて、今は仕事だからと切り替えようと努力しているこっちの身にもなって欲しい。仕事と私事。彼ほどごちゃごちゃに混ぜて、それでも綺麗に切り分けられることなんて出来やしないのだから。

「口にしていないと不安になるからな」
「……」
「君相手だと、どうも私は私でいられないよ。罪な女だ」
「好きでそうなったわけじゃないです」
「そう。だから、厄介さ」

 それなのに。

「大佐」
「何だね」
「やっぱりそのスコーン返してください」
「ふむ、君がそういうのなら」
「その代わり」

 それなのに、彼はやっぱり私を乱す。

「まだ空いている食品店へエスコートお願いできますか」

 もうどうにでもなれ。出しっぱなしのペンも開きっぱなしの手帳も手付かずだった資料も何もかもほったらかしにして、私は鞄を手にした。それを見て、満足そうに大佐は笑って、同じように席を立った。
 ぱたん、と無人になった執務室の扉が閉ざされる。これから先は、存分に私も口にさせてもらおう。好きだの、愛してるだの。それが許される時間の幕開けなのだから。