201105~ | ナノ




 私は泣かないって決めた。淹れ立てのココアが慰めるみたいに優しい味わいを与えててくれても、焦がれたのはその暖かさじゃない。一昨日は無性に割りたくなって気に入っていたプレートを床に叩き付けた。昨日の夜は鳴らない電話に嫌気が差して壁に投げ飛ばした。これもそれもどれも、原因は一つだった。

 今日の時間はまだ昼。文明の利器はまだ硬い床に横たわって沈黙を保ったまま。壁には小さな窪みが、一つあった。伸ばしっ放しにしてた爪でそっとそこをなぞる。いつだったか、彼が気紛れに私にそうしてくれた時みたいに、ゆっくりと、時折力を入れて引っ掻いた。睫を伏せて、抱きかかえていた淡い色したクッションに、もう片方の手を食い込ませる。いくら力を入れても傷付かないその反発力のなさに苛立つ。まるで私のようだ。
 彼は気紛れだって知ってるくせに、拒めない。それでも泣かないって決めてた。それなのに、



「そんな隅っこで、何をしてるのだね」

 白い壁に薄っすらと影が差したのをあたしは見逃さなかった。どうして、なんて問いただしたところで返って来る答えは分かってる。この人には少なくとも私の中の常識は通用しない。
 すっと、白い手袋に覆われて温度をぼかした彼の手が近付いてくる。やめて、これ以上気紛れを与えないで。決めてたのに、泣かないって。どうして。どうして、彼の姿を見た瞬間、泣きたくなってしまうの。
 抱きかかえていたクッションで彼の手を拒もうとする。自分に出来る精一杯の反抗だ。

「今日はご機嫌斜めかな」
「やだ……どうせ」
「どうせ?」
「どうせ、保ちたいだけ」
「主語を言いなさい。それでは分からないだろう」

 たまに彼はまるで自分の子供に叱りつけるみたいに厳しい口調をすることがある。その度に私はびくりと肩を揺らして彼を見ることしか出来なくなってしまう。真っ直ぐに勇気を出して見た彼の瞳の熱さは、これ以上無いくらい欲しがって止まない熱そのもの。

「……私の顔、見ないくせに」
「ほう?」

 物珍しそうな顔。本当は何度だってあなたが目を丸くするぐらいの反発したいって思ってたのに、私は未だに一度も出来ずにいる。困らせたくないから。違う、私が、あなたに嫌われたくないからだ。保ちたいのは、私のほうだ。
 クッションで遮っていたはずの彼の手が、そこを軽々と突破していて、気付いた時にはもう遅かった。つうっと私の頬を撫でる暖かさ。涙腺がそろそろ限界を訴えていた。

「つまり寂しかった、と?」
「どうして、そうなる、……んですか」
「相変わらず可愛げがないな」
「あなたの記憶にある女性の中で一番?」
「……君は意地悪だ」
「ロイほどじゃない」

 「何でもいいから、一番になりたいだけです」。そう小さく呟いた後、コードが抜けて横たわる電話に目をやる。沈黙に徹するその機械はどうやら壊れてしまったみたいであちらこちらに小さな部品が飛び散っていた。釣られるようにそちらを見た彼の溜息が耳に届く。頬を撫でていた手が、上へ上へと昇っていった。到達した頭の天辺、ぽんっと宥めるような振動が直接伝わった。

「道理で今日何度鳴らしても通じないわけだな」
「……え?」
「出かけるぞ」

 そう言って立ち上がった彼の姿が、昼間の光が満ちる室内で少し眩しく見えた。見上げる彼の姿、何度か見たことのある軍服姿。今日はお休みじゃないんでしょ。そう尋ねれば彼の少し乾いた笑いが返事をした。

「心配だったのさ」
「何、が? 何を?」
「そうだな。……君は一番だ」
「何の?」
「この私を心配させる人物」
「……嬉しくない」

 呟いて、立ち上がる。彼の手が拾い上げた電話の部品が床に落ちてコツンと小さく音を立てた。

「どこに行くの? ロイ、お仕事なんでしょ」
「丁度昼時だ。ランチも兼ねて、電話屋へ行こう」
「え」
「君と連絡を取れないのは私も寂しいからな」
「……」

 コートを羽織ってあたしは、彼の言葉に表情を歪めた。
 心地良いって、どうして感じてしまうんだろう。反発出来ずにいるのは何でだろう。その言葉を言ったのは私で何人目なんだろう。
 玄関へ出る最中に踏みつけてしまったネジの一本を拾い上げて何となくコートのポケットにしまった。先を行く彼の背中を見つめながら、溜息を付く。

 私はあなたの瞳に映ってる誰かとは違うのに。
 「身代わりなら、他当たって」。その言葉が言えない私だって甘えてる。彼との、不器用な今のこの関係が心地良くて何より、彼が好きだから。

「寂しい、……って、それ」
「ん? 何か言ったかね」
「んーん。何でもないです。……高級品の電話が欲しいなって」

 本当はうまくいってるなんて根拠、一つもない癖にこうしてまた笑うことが出来る。だから泣かないんだよ。
 本当は一人だって、知ってる。



20110522 / losing grip