201105~ | ナノ



「寒がりのくせして、窓開けっぱにしてんじゃねーよ」

 午後のまどろみに吸い寄せられた意識が紐解かれ、急に陰りを差した視界と共にふわりと浮き上がる。額に、髪に、すいすいと自分以外の体温が通り抜けていく感覚が走った。その柔らかな施しは、きっと、夢だったのだろう。意識と紐付けされた瞳が薄っすらと広がっていく現実の中に、それは存在していなかった。

 誰かによって遮られた窓の向こう側からは部活動に勤しむ、はつらつとした声がこだましている。
 こだまでしょうか、という有名な詩が不意に脳裏をかすめた。「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。「ばか」っていうと「ばか」っていう。続きは、何だったかな。どうでもいいや。鼻がむずむずする。

「だれですか」という私の問いかけにこだまは返って来ない。
 眠りの淵に心地よく遊んでいたところを邪魔されて、私の機嫌も少し悪かったのだろう。目の前を覆った黒い暗幕のような布をぎゅっと掴んで、剥ぎ取る。途端、クリアになった視界の片隅で影山の姿があったから思わず唇を尖らせた。
 だれですか、という質問には丸っきり無視と来た。挙句、ばさりと無造作にジャージを頭に掛けられ、おいおいと怒りが沸々と頭のてっぺん、八合目くらいまで昇っていく。

「邪魔されたーせっかく寝てたのに」
「おー」
「おー、じゃないよ。なに。何いきなり上着掛けんの。ジャージ置き場じゃないんですけど、私の頭」

 何も言わないで、どうしてか目を丸く見開いて影山が自分の席へと行ってしまう。第一、窓側のここと影山の席とは間に三列もあるから決して近くもないのに、わざわざ私の席まで来て上着を置いて行く意味が分からない。なんなんだ、大体今は部活の真っ只中のはずじゃないのか。
 時計を見上げると、短針が午後五時を指し示していた。
 橙色に空を染めきっていた夕陽は徐々に陰りを見せ、バトンを受け取った夜が忍び足ですぐそこまで近付いてきているのが気配で分かる。開け放たれたままの窓から、肌寒い風がするすると身を覆うように入り込んできたからだ。暇つぶしに読んでいたはずの文庫本のページが風に煽られぱらぱらと捲れていく。栞も挟んでいないのに、困った。まあ、いいや。
 影山は部活で散々汗を掻いたお陰なのか、黒いTシャツ一枚だった。寒くないの、という問いかけには無言が返って来た。無言は肯定と捉えると昔からよく言うけれど、影山の場合はそれが顕著だ。つまり、寒くないの。寒くない。スポーツマンってやつは本当に、得体が知れない。
 まだ秋の入口とはいえ夕方から夜にかけての時間帯に、否応なく長袖を羽織るようになった私の習慣をまるでバカにするような格好だ。そろそろマフラーでも出そうかと思ってるくらいなのに。
 せっかく部活が終わるのを(待ってろと言われてないけど自発的に)待ってる(仮にも彼女一歩手前の)私に対する、なんたる遠まわしな揶揄、いや、それすら影山はいちいち考えて行動しているつもりはないのだろう。無意識に振り回されてばっかりなのは、既に学習済みだ。だから見た目が寒いんですけど止めてくれませんかなんて皮肉も多分、通用しない。精々首を傾げながら俺は暑いんだけど? なんて返されるのが関の山だ。
 とにかく影山が視覚的に寒い。いや視覚だけではないかもしれない。自覚すると途端に、両肩がぶるりと震えた。感覚としても、この部屋は結構、寒いのかもしれない。窓を開けっぱなしにしていたお陰で、体はすっかり冷え切ってしまっていた。

「ていうか部活おわりなの」
「あー……」

 がさごそと自分の机の中を漁りながら、影山は私の問いかけに思案するような声を出した。するような、というのは本当に比喩だ。多分、大体何も考えてない。今だって何か探してはいるものの、手つきに集中力の欠片もない。きっと一刻も早く体育館に戻って、頭の中を巡り巡ってるフォーメーションの一つだの速攻のタイミングだの何だのを試したがっているに違いない。
 会いに来たわけではない、とすると。
 今の今まで自分が寝入っていた机に頬杖を突き、私は三列向こう側の影山の緩やかなカーブを描く後頭部を眺めると、ふわふわと一房二房ほどの髪が浮いているのが見えた。その頭がようやく何かにありつき、元の姿勢へと戻る。指先には二、三枚のプリントが握られていた。

「課題、提出されてねえって」
「えーわざわざ体育館まで呼び出し掛かったわけ。それ世界史? 真面目だなあ先生も」
「まあ、そんなとこ」

 プリントの端を覗き込んで、それから盛大に影山の表情が曇る。無造作に頭に掛けられた影山のジャージの上着をだらんと眼前に垂らしながら「なに、提出以前にやってないとか?」と短く尋ねると、そうじゃねえよと意外な答えが返ってきた。

「やってるんだ。すごい」
「たまには真面目にやるっつうの」
「いつも真面目でいようよ」
「……英語の時間ぐーすか寝てた癖に」
「ねてないよ!」

 それにしても、と私は影山のジャージを両の手で広げながら、しげしげと見つめてみた。袖口あたりを掴んでいても充分に分かるほど、暖かさがまだ残っている。
 と、こちらへ振り返った顔が、どことなく苦渋を滲ませている。影山らしくないそれに、私はただただ首を傾げるだけだ。

「どうしたの」
「……このあとミーティングだけだから」
「あ。そうなんだ、意外に早かった。待ってた甲斐あった」

 何となく、彼ジャーというものに興味が沸いたので羽織ろうかと思った手が近付いてきた影山の手によって止められる。手首を強く掴まれて、小さく悲鳴をこぼす。影山は「悪い」と言ってすぐに離してくれた。けれど。
「また邪魔した」と二度目の抗議も虚しく、見上げた先で影山はどこか複雑そうな顔をしてこちらを見据えていた。なに、その顔。拗ねてるような、悔しそうな、なんとも言えない。色んな感情が一個に凝縮されて塊になったみたいな、それだった。

「何かあったの」
「……おまえいつも待ってるけど」
「え? うん、もう待つなって言われても待つよ」
「もう待、……」
「……」
「……言いかけたこと先回りすんじゃねえよ」
「影山が分かりやすいんだって」

 出来るだけ先回りして、影山の話の腰を折る。複雑骨折しても構わないくらい、その「待つな」という類の話題にはとことん否定したい。「好き」といった私に「好き」と影山はいった。いや、正確には「好き」なんてストレートなものじゃなかった。何だったっけ、と記憶の引き出しを探る。

「嫌じゃないって言ってくれたんだからそれくらい、させて」

 お互いの感情も気持ちも理解しあってるのに、その先に進むことを選ばなかった。その時はまだ、今ではないと私も影山も何となく、感じ取っていたのだ。
 だから、中途半端にお互いの感情を把握した上で成り立っている今を名付けるとすれば「お試し期間」とか「友達以上、恋人未満」とか、そういうものなんだろう。くすぐったくて本当に、仕方がない。だけど引き返すには、進みすぎた。
 もちろん影山にとって今一番大事にしたいのはバレーであって、それは私も重々承知している。いつかその一番の中にほんの少しの余裕が出てきて、隙間に一ミリでも良いから私という存在がぽつんと置かれること。そんな日が来るまで、どうしようもなく曖昧なこの関係は続いていくんだと思う。

「ミーティング遅れたらだめだよ」
「……分かってるっつーの」
「プリントも忘れないように出しなよ」
「かーちゃんか」
「かーちゃんでも良いよ」
「俺はいやです」
「じゃあ私もいやです」

 だから、今更な気遣いはしてほしくない。いつか、その隙間に入り込むことが出来た時、改めて距離を測り違うことのないように。私の手を掴んだまま、依然として小難しい顔をしてる影山を見上げる。
 風が入り込む度にふわふわと浮かぶ黒い髪も、まるで黒曜石みたいな強い光を放つ瞳も、少し不機嫌そうに尖った唇も何もかも、すごく、すごく大好きだなあって思う。
 ふざけて羽織ってみようと思っていたジャージを素直に彼へ差し出す。と、影山が私の手を押し戻した。ん? と短く問いかけながら首を傾げる。影山は私から視線を外して、どこか違う方向へ顔を背けていた。

「ジャージいらないの」
「着てろ」
「え、何で。さっき着んなみたいな止め方したくせに」
「あれは、」
「あれは?」
「……なんとなくだ、なんとなく」
「なにそれ」
「うるせーから。もう行く」
「はーい、って、はや!」

 一向に顔をあわせてくれないまま、影山は私に背中を向けると駆け足で教室を出て行ってしまった。駆け足というか、あれはもう全力疾走に近い。
 ばたばたと盛大に響き渡る足音が徐々に徐々に小さくなって、やがて消えていくまでの短い間、影山のジャージを持ったまま私はその場に佇むことしか出来なかった。なんなんだろう、あれ。
 まあいいや、とお言葉に甘え、影山のジャージに腕を通してみる。当たり前だけど、腕を精一杯伸ばしても中指の第一関節辺りがようやく空気を掠めるほどぶかぶかだった。けれど、やっぱりどこか暖かい。まるで教室に来るまでは着ていた、ような。

 不意に、影山に起こされる前のまどろみが蘇る。夢だと思っていた。額に、髪に感じた誰かの温かみを思い出すように、少し長くなってきた自分の前髪を指で摘む。自惚れても、いいのなら。

 影山ならきっとまた、呆れながらも私を起こしてくれるだろう。「起きろ」といったら「起きる」、「ありがとう」といったらきっと少し意外そうな顔をして、「べつに」って返してくるに違いない。そんな想像を偲ばせながら、身を包むジャージの暖かな生地に身を任せ、私は再び机に突っ伏すことにした。
 帰りを、待つ。
 


20150116/成瀬