201105~ | ナノ





 目の前に広がる膨大な数の書物こそ、彼を満足させられる唯一のものだろうと思っていた。それを鼻で笑って部屋を後にしていければどれだけ良かっただろう。そうやって悔いて恥じて何度も同じことをくりかえして、きっと逃げられなくなるのだ。とんだ策略だ、と、勝手に責任をなすりつけなければやり過ごせないなんてみっともない。

 しとしとと雨が降り続けていた。朝から憂鬱にさせられるその音は昼を過ぎても耳をつんざいていて、結局あとから考えてみれば終日自分の心を微かに病ませる原因はこいつだったのだといいように責任転嫁してもいいくらいじゃないか、そう思えるほど激しい雨がただひたすら飽きることもせず地面を打ちつけていた。
 喧騒というものは、この屋敷に存在してはならない。この家の当主である元就さまが「雨はていの良い手段だ。戦でも逢瀬でもうたでもね」と楽しげに話題を広げる趣味をお持ちだからだ。冗長な彼の話を好き好んで耳を傾けるけうな者と、私はいま、対面している。ふすまを開けると、彼はいつもの体勢で読書にいそしんでいて、挨拶もろくにせず本の世界にのめりこんでいた。その傍らでただ何もせずぼうっと本の背表紙をなでたり、たたみの匂いに鼻をくっつけてみたり、欄干からぼたぼたと落ちる雨の雫を眺めたりしていた。ひまでもなく、忙しくもなかった。この部屋はいつだって均一だ。
 冷めきった茶ひとつ。それはここに来たときに運んでから数時間、減りも増えもしない。自分用にいれたものばかりが変化している現実に、ようやっと嫌気がさして口早に彼をよんだ。
 小早川さん、小早川さん、小早川さん。
 三度目の正直なんて言葉がある。二度あることは三度あるともいう。仏の顔も三度までという言葉、以下省略。しとしとと降る雨、湿気をおびた風、そのどちらもが空気の入れ替えのために開けられたふすまの向こう側から足先を湿らせていて、ひどく億劫になる。こんなにもいらついている自分の存在になど、できれば気付きたくなかった、と、長く深くゆっくりと息を吐きだす。ようやくそこで彼は顔をあげた。

「区切りが付きましたか」

 自分のなかにある最上級の皮肉だった。彼はそれを是とし、手にしていた本をぱたんと閉ざすと脇へ寝かせた。すぐにその手が宙をさまよう。落ち着きのない行動、文字を追うことをやめた彼が無理をしているのは明らかだった。無理して話さなくてもいいのにと、あきれた。

「そういえば話があると仰っていましたね」

 湿気で本が傷んでしまいますから、と彼はこちらに手を差し出した。暇つぶしに読んでいたひとつを取り上げられる。その苦しみを誰よりも知っているはずの彼が、他人にそれを要求するさまを見るのは愉快だった。勝手だ、と苦言をしめせば小早川さんはただ少しだけ笑って「すみません」と意味のない謝罪をおとした。
 縁側に作られた庭園の手入れをする者もおらず、戦も控えていない屋敷の中はとてもとても静かで声を発することすら戸惑いをもたらす。私はその雰囲気が好きだ。
 反対に雑音のたぐいはそうじて嫌いで、戦場に響く人々の叫び声や金切り声が轟音や地を蹴る鳴動、武器の上げる悲鳴じみた金属音もろもろはもちろんのこと、町ゆく人々の雑談、ひいてはだれかと話す自分の声すらやかましく思うことがある。
 それをだれかに声にして告げたことはない。呼吸をくりかえし、律動を半永久的につづける心音すらわずらわしく思うなどという思想は、危険人物の範疇に判別されかねない。そんなことは指摘されるまでもなく理解している。
 そのことで悩むこともないし、迷うこともない。ただたまにふとこのかんしゃくから解放される瞬間は、人生でただ一回しか存在しないのではないかという答えに至ることがあって、愕然とする。自分が息を引き取って、静かに眠るときだ。あたりまえだが耳はその機能をうしなう。何の音も取り込まないし、音をわずらわしいと思う気持ちもかんじなくなる。それはとてもいい案だ、と思うと同時に好んでいる静けさも身をもって実感できなくなるのだ。前者と後者とをはかりに載せながらどちらがいい? と聞かれても、きっと私は悩むだろう。
 それは贅沢な悩みだと、自負している。この考えがひじょうに蛇足的だということも。毛利家に出入りしているうちに、彼らの語りぐせが私にもうつってしまったのではないかと肝が冷えた。

「小早川さん、黒田さんからの文」
「ああ」
「ここに来るときすれ違った黒田さんの部下が今日も溜息をついてましたよ。すごく立派な」

 彼は少し困ったように眉を下げてから常套句の「すみません」を使った。数日前から待たされている者の気持ちもわからないのか、理解しようとも思わないのか。彼の私室にある机のすずりは、ものの見事にかぴかぴに乾いてしまっている。
 それから、と続ける。耳が痛いと、ようやく彼が茶を啜った。ぬるいです、と文句をこぼされてたので「自分で招いたことです」ときっぱり言い切った。

「どこぞの誰の娘さんでしたっけ、なんとか姫」
「目上の方にそのような扱いしては失礼ですよ」
「目の前にいたらちゃんとしますよ、私だって。今は小早川さんしかいませんし。息苦しいのはきらいです。そもそもあなたにそれを言われるとは思いませんでした」

 いただいた文はどこにしまったんですか? と尋ねながら周りを見渡す。当然のことのように彼は「どこでしょう」としらを切る。しかもそれを当たり前のようにいうのだからことさらタチが悪い。計算ではないのだ。戦のときこそ冴え渡る彼の頭脳は、えてしてこういった事象にはまったくと本領を発揮しない。そこが魅力のひとつなのかもしれない。実際、彼はひじょうにそこいらの有力者のむすめや姫さまといった地位を持つ女性に人気がある。
 けれど寄せられている好意にもきづかず、めぐり合わせにも応じず、彼がただひたすらに求め続けるのは紙。ただの紙に何人もの女性が負けてきたのだ。

「小早川さん。筆不精だというなら、祐筆を雇ったらどうでしょう」
「さすがにそこまでは。必要があれば、自分で書きます。仕事ならまだしも私事で言葉を綴ることに、代役など立てては感情もなにもありませんから」
「そういう気持ちがあるんでしたら、きっちりとお断りを入れることをお勧めしますけど。相手からしたら中途半端にされるのが一番いやだと思いますよ」
「不要です。その気がないと判断したら離れていくでしょう。女性とは」
「天気と同じ、と昔からいいますしね」

 おかしな話ですね、と真っ当すぎる意見を述べる。彼のいう「女性」の枠組みに私はたしかに含まれているはずなのに、その言い草はまるで同意を求めているようで。思わず笑いがこぼれた。
 あなただけは違いますねなんて甘い台詞が聞ける期待など、とっくの昔に捨てた。とっくに、と表現したけれど正確には数ヶ月前だ。つまり自分の身くらいしか守る術を持たないしがない傭兵としてこの屋敷にお世話になってからの、およそ数ヶ月。正直にいえばやましい気持ちがなかったわけではない。でもすぐにそれは煙となって消えた。このひとを好きになったところでどうしようもないのだと、理解したからだ。彼はとっくにとりこなのだ。ひとの知識の代名詞としてこの世にはびこる「文字」という存在に。
 勝てる女など、この世のどこを探してもいやしないだろう。いたら見てみたい。
 だから今はただ大量の書物を読むためだけにこの部屋を訪れる。それだけで良かったはずなのに、街中、ひいては名を上げたがる武家中でそれは瞬く間に噂として広まってしまったらしい。会う者会う者に小早川さんとの関係を確かめられ、大した深さでないと知るや否やそれならば我が娘をと文を押し付けられることもしばしば。そろそろ面倒が募ってきたので毛利家への出入りをやめようと思っているところだった。

「本当に本がないと生きていけないんですね」
「そうですね。文字は裏切らない。文句もこぼさない。たえずその場に存在してくれる。これほどのものを、私は裏切ろうとする考えすら浮かびません」
「へえ」
「それはあなたもそうではないのですか」
「どうでしょう。たしかに本は不動ですけど、その分、面白みがないじゃないですか」
「退屈だと思いますか?」
「そういうんじゃなくて、うまく言えないんですけど。文字は何回繰り返してもずっと同じ、っていうか。だから小早川さんは色んな本を集めているんでしょうけど」
「ああ、それは確かに。そうかもしれませんね」

 書物は希少価値のあるものも多く、目をみはるばかりだ。湿気をさけようとするのも頷ける。彼はそれらを、とてもとても大事にしている。恋仲のように。
 その一部を適当にみつくろって、数冊借りて、それらを読み終えたら出て行く。その旨を伝えるつもりだったけれど、うっかりそのきっかけをなくしていた。雑音が耳をつんざく。雨がいっそう酷くなったような気がした。
 品定めをするように適当に近くにあった山を崩してみる。彼は何も言わなかったので、きっとこの山は大丈夫だろう。以前、彼が順番つけて読もうと並べていた山をうっかり崩してしまったときはおそろしかった。後から私も読みますのでちゃんと順番どおりにしてくださいねとさも当然のことのようにいわれたからだ。
 一冊、手に取ってみる。彼ほどではないが本はそれなりに好きだったので気付けばその頁が半分を過ぎるくらいまで没頭してしまった。
 さっきまで昼過ぎだったはずの風景が、西からの眩しい太陽が差し込むものに変わっていたと気付いて目を疑った。何も手に付けず、茶も飲まず、さらにあれほどうっとうしいと思っていた雨が上がっていたからだ。
 ぽん、と本が床におかれる。こちらが顔を上げたのと同時に彼は一冊を読み終えたらしい。「晴れましたね」と今の天気をたとえるような爽やかな表情を浮かべて、外の風景を見つめた。

「本を読む理由にもう一つ」

 彼はゆったりとした口調で続けた。その口ぶりは父親譲りだろうか。人の声などすべて煩わしいと思っていたけれど、こんなにも穏やかでのんびりとした声色が存在するのならこの世はそれほど捨てたものではないのかもしれない。そんなことを思いながら耳を傾ける。

「私はまだ自分が未熟だと自負しています。言葉が必要で、知識が必要です。自分を養っているんです。それらを得て、初めて自分の意志を主張できると。語彙とは、すなわち知識に等しい」
「……ええと、小早川さんの言いたいことはとてもよく分かるんですが、その出口が見当たりません。それは元就さま譲りですか?」
「自分でも分かっていますよ。回りくどい策だなあ、と」

 心臓がとてもとても痛く重たい音を刻み続けていた。西日の容赦ないじりじりとした熱が足元におそいかかる。日褪せするといけないので、と彼はまたも勝手に私の持っている本を取り上げながら、続けた。

「私は文をしたためることより、あなたとともに静寂に寄り添って知識をかじっている瞬間の方が何倍も大切です。そういうことです」

 まだまだ知識が足りないと自戒しているのならどうして今それを告げたのだ、と。咎めることもままならず、私はただ小早川さんの顔をばかみたいに見つめることしかできなかった。彼は「出て行くおつもりのようで」といたずらに笑った。卑怯だとこめかみをおさえる。それは言葉にしないままでよかったのに、と彼の柔らかすぎる声色を呪った。
 だってその瞳の奥に移る西日を美しいと認めてしまったので、きっとここを出て行くことは難しいだろうと悟ってしまったから。











 
20140413/成瀬