201105~ | ナノ





 朝焼けの匂いとはどんな匂いかね、と聞いたら彼女は「ベーコンエッグかなあ」とまるで口笛を吹くように言った。目の下にくっきりと刻み込んだ隈も厭わず、書類の山に手を付けていく。以前モーニングをご馳走した時に焼きたてのパンに手を伸ばしていた彼女の姿と、それはとてもよく似ていた。仕事をすることと、彼女が生命を維持しようとする行動の原理は同じなのだと悟った瞬間である。
 片や私の前に置かれている山は一向に崩れる気配もない。仕事中毒の彼女と基本的に自堕落な自分との間に転がる差異は山一つ分。しかしそれが、私が彼女を口説いてはならない理由には値しない。地位や名誉の差というのは自分の心を燃え上がらせるほかないからだ。手に入らないと思ったものほど欲しいと思うのは人間の当たり前に存在する欲求、その欲を包み隠さず露呈できる私自身を私は嫌いではない。――などと御託を並べるには、爽やかすぎる朝だった。
 付けっぱなしにしていた照明が、睡眠不足の目に眩しさをもたらす。何秒かその光源を見つめてそれから、はあ、と盛大な溜息を零せば、視界の片隅でおかしそうに彼女が笑った。子どもみたいなあどけない顔、つまらなさそうに「面白いかね」と質せばこくこくと小さな頭が上下した。けれど「溜息ついて良いほど、山は減ってないよ」と、可愛らしい動作をしてみせるくせに口はヘビの毒のように凶悪強烈極まりない。盛大に肩を竦ませる。ご指摘どおり、私の集中力はとっくに切れていたから。ころころと転がしたペンを指先で引き寄せる。そんな簡単な動作のように、彼女のことも引き寄せられたらどんなに楽だろうとぼんやりと膜の張った頭はよこしまな思考に囚われ始めていた。

「大佐、この山が片付いたら私にご飯奢ってね。ベーコンエッグって単語言ったら予想以上にお腹空いて来たから」

 それを阻むかのように、彼女は言った。虚を突かれたことなど悔しいので認めてやらない。余裕の色を顔面に垂らし、それがしっかり侵食するまでたっぷりと時間を置いてから私は答えを口にする。

「言われずとも」
「あとお腹鳴っても知らない振りしてね」
「当たり前なことを言うな」
「そういうとこ、本当気に喰わない」

 けらけらと笑って何杯目か分からないコーヒーにありつこうと彼女は席を立つ。簡素なキッチンは、執務室の奥に設置されていた。「大佐も飲む?」と聞かれたので適当な相槌を返すと彼女は「上司に対して酷い扱いだなあ」と言って安っぽい軍の備品であるやかんを手にした。薄い紙の上に置いた二匙分の粉末に、予め沸騰させておいた湯を注いでいく。
 静まり返った室内に、こぽこぽと響く音。それを彼女は好きじゃない、と言った。

「反復運動。泡がぷっくりしては萎んでの繰り返し。何度も何度も同じような書類を見ては飽きることも許されないで働き続ける私たちと同じみたいで、徹夜明けの朝にこんな光景を見ると吐き気がするよ」
「君は」
「うん?」
「君は仕事が好きだと思っていたよ」
「いやだなあ。私だって人間だよ」

 同期の中で、唯一イーストシティからのなじみの彼女を私は正しく認識していたつもりだった。それが間違いだと指摘すればロイ・マスタングという男の男としてのプライドにかなりのヒビが入ると、彼女は熟知している。好きな人の好きなものも分からないの? と問い質されている気分だ。心底、面倒な恋愛を抱えてしまったものだと失笑した。
 「マスタング大佐は百戦錬磨の手だれとお見受けしましたよ」。彼女はそんな私に構わず白々しいセリフを吐き零す。ずず、と啜る音が下品だと指摘する気にもさせてくれない。差し出されたマグカップに触れた皮膚が熱い、痛い、と悲鳴を上げた。翻弄されている心を代弁しているかのようだ。直接的な表現を避け、曖昧にしている自身が言えたことではないと思うけれど、少しは男を立てる姿勢の一つでも示して欲しいものだ、と呆れた。彼女は自信があるのだ。

「人間だから、好きなひとには好きって言ってもらいたいものなんだけど」

 私に好かれている、ということに。

「……言えると思うかね」
「大佐って見た目と手管に寄らず、中身は相当女々しい」
「そう評価するのは君くらいだ」
「わ、そうなの? じゃあ世の女性みんな騙されてるわけだ。かわいそう。被害総額いくらかな。大佐の年収超えるかな。超えるんだったら、じゃあ、私の年収は超えるかな」
「訴えられるようなことはしていないつもりさ。それから……、後半は職場におけるパワハラと捉えてよろしいでしょうか、みょうじ准将」
「訴えないでね」
「だれが訴えるものか。一層やる気を頂いたよ」
「そう。じゃあさっさと書類片付けちゃおっか」
「……」
「あからさまにそんな嫌な顔するなんて、仕事がかわいそうだよ」
「やっぱり君は仕事が好きなんじゃないか」

 コーヒーを口に含む。苦々しいその味が舌に広がると、自然と眉間に皺が寄った。彼女が自分にコーヒーを淹れる時、そこにはほんの一匙のミルクが加えられていることが多いからつい面食らってしまった。残業につき合わせてくれたお礼だと彼女は屈託のない笑みを浮かべる。仕返しの間違いではないのかと言いたくても吐き気のせいで喉を震わせることも叶わない。叶わない、恋をしている。ロイ・マスタングの評判が聞いて呆れる、と湯気に隠れてこっそり自嘲した。

「ああ、そうだ。一個報告し忘れてたよ、マスタング大佐」
「……嫌な予感がするんだが」
「ご名答。来月から少将。また大佐と差が開いちゃうんですけどどうしてくれましょうか」
「本当に」
「本当に?」
「どうしてくれるんだ、君は」

 すっかり明るさを取り戻した部屋に合わせるように、彼女はつけっぱなしにしていた室内灯の電源を落とした。目が悪くなるだろうと小言を漏らせばそれくらいの責任は取りますよと、これ以上ないくらいの揶揄が返ってくる。

「だからちゃんと最終的には責任を返してくださいね」
「何倍にして返すつもりさ。相当焦っているがね」
「そっちのほうが大佐らしくて良いと思うけど」
「勘弁してくれ。こんな無様な姿、君には見せたくなかった」

 ああくそ、と前髪を掻き上げる。基本的には、仕事が好きではない。出来ることならこんな未処理の書類の束に囲まれて息苦しく生活するよりも、外で極悪人を追いかけている方が実際には性に合っている。しかし現実問題、それだけでは足りないのだ。近付こうと自分を奮い立たせればそれだけ埋まったはずの溝が、何度も何度も広がっていく。優秀な彼女の足を掴んだばかりだというのに、その足はひらりとステップを踏み、更に高い場所で優美に踊る。ダンスは好きだと以前彼女は言っていた。

「そうそう、こないだ連れて行ってくれたオープンカフェ。好みの味だったよ」
「……お気に召してくれたようで何よりだ」
「デリカテッセンもしてるみたい。こないだコーヒーのテイクアウトをしたんだけど、少し甘ったるい味が独特だなあって。ベーコンエッグを挟んだベーグルも丁度いいボリュームで好き。徹夜明けには丁度良いと思うんだけどどうでしょう?」
「そうか。それなら十時のラストオーダーまでには区切りをつけるとしようか」
「主に大佐がね」

 モーニングにエスコートする許可は頂いた。それでも甘美な空間で彼女の手を取るにはまだ相応しくないと評価を下された気分だった。コーヒーを啜る。胸糞悪くて仕方がないよ、と素直に感情を吐き出せば彼女は「口が悪いなあ」とまた笑った。
 だれのせいだ、と乱暴にペンを走らせる。窓から差し込む朝焼けにじりじりと熱を帯びる背中が、悲鳴を上げる。私はすべてを無視することに決めた。





20140322/成瀬